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狂気が薄れていくのを食い止めろ

気がつけば3ヶ月もnote更新していなかった。

そろそろ書かなきゃ、と駆り立てられ、なかなかの長文を書いたのだが、2日経って半分も読み返さぬうちに投稿するのを辞めた。
たった2日でそれまで書いていたことが非常にくだらなく、つまら無いものに思えて仕方なかった。

いつまで経っても美大生

その2日の間に何の因果かわからないが、大学の同級生に2日連続で会うことがあった。それぞれ別の人だが、どちらも約10年ぶりに。

みんなの「現在」を知ってる限り教えてもらったのだが、うまくいってる子も、そうじゃ無いけど頑張ってもがいている子も、なんかそれぞれ良かった。
みんなやっぱり美大生のままだった。うっすら漂う狂気を感じた。

同級生には良くも悪くもどうかしてるヤツが多かった。

そんな話をした帰りに、さっきまで書いていたnoteを読み返して
「うわ、おもんな。」と思わずにはいられなかった。

いつの間にやら私の狂気は薄れていたようだ。あぶないあぶない。


ボヘミアン・ラプソディ

ずーーーと観たかった映画をようやく観た。

圧巻のライブ映像の爽快感と、フレディの胸が締め付けられる程の孤独の描写。
中盤から最後まで、目が真っ赤に腫れる程、泣いていた。

ふと気がつくと横に居たお姉さんも泣いていた。私と同等ほどにはヒックヒックと。

赤の他人と一緒に流した涙が、ここ最近で一番手応えのあった「共有」だった。
言葉は交わさずとも、ていうか交わさなかったからこそ。

私は文章を書くことも話すことも、正直得意では無い。
noteも結構悩んで時間かけて書いている。毎回難産だ。
思っていることや伝えたいことを言葉にする時、大概の場合100%でしっくり来ない。物書きの方には大変失礼な言い方かもしれ無いが、言葉に置き換える作業は、代替え作を出している感覚が常にある。

映画にしろ、演劇の舞台にしろ、ライブ、落語、何か観に行くのは好きだけど、ここ数年もっぱら独りで観に行っていることが多い。
もしかしたら、その代替えされた言葉での感想の共有が怖いのかもしれ無い。
誰だって誤解されたく無いし、それが好きな人ならなおさら。

周りの席で泣いているのは私と横のお姉さんだけだった。
しかも溢れる涙を拭うタイミングも同じ。
なんか、ちょっとだけ救われた気持ちになった。

ハロー孤独

UAに続き、個展を開催して、今ようやくnoteを書いている訳だけども、
制作は本当に辛かった。
私はフリーランスで仕事をしているのだが、極力仕事も減らし、朝から夜中までひたっすらに制作だけを2ヶ月近くしていた。
その当時の唯一のストレス発散方法は、夜中にヘッドフォン大音量で八十八ヶ所巡礼の「凍狂」を聴きながら近所を散歩することだった。
頭、手足をブンブン振り回しながら。
まぁ、なかなかに狂気の沙汰だったかもしれない。

なんの会話をしていた時だったか詳しくは忘れてしまったけど、
ずーーっと家の中で制作に明け暮れてるのもなぁと思い、誰かと外出した時のこと。

「それって本当に打ち込んでるって言える?」

私の絵に対する姿勢のことだ。
そう言われた時は耳がキーーンって鳴って脳がフリーズした。

家について、実感が湧いてきたら、気が狂いそうだった。いや、狂った。
「何かに打ち込んできた」ことだけが取り柄だと思ってここまで来たから、「あれ?違ったの?」と思っただけで凍りつくような寒気がした。
違ったのであれば、これまでの人生はなんだったのかと、否定された気がして。

どうしても作品を作らないといけない時期だったので、頑張ってキャンパスへ向かうけども、涙がこみ上げて描けない。

一番大切にしてきた事を取り上げられた気分だった。

「違うもん。私は絵に打ち込んできた!」「いや待って、そう思いたいだけなのかも?」ぐるぐる思考が脳をめぐる。
だけど、どう頑張っても「打ち込んでいなかった」とは認められなかった。
どう頑張っても、だ。

今でもふと思い返すと憎悪が沸き立つほど腹立たしく悔しい気持ちになる。

どうやったら「打ち込んできた」事を証明できるのだろう?
やはり「売れる」しか無いのか…
「売れた」時、私は本当に「打ち込んでいた」事を証明できるのかな?

それは分からないけど、証明したい。
そのためにはまず薄れた狂気を取り戻したい

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Aya Shimohara / 下原亜矢
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