見出し画像

[心を研ぎ澄ます]喉の違和感の理由 夏風邪ではないとすれば。。。

先日、夏の味覚のひとつである桃をお取り寄せした。
収穫時に送付されるためいつ届くか指定できなかったのですが、別々の地域から2種類の桃が同時に送られてきた。

この猛暑。
傷むのも早いのではと早速食べてみたところ、まだまだ石のように固い。
固いけど甘かった。

そのうち良い香りがしてきたので、そろそろ食べ頃かなと思って切ってみたらまだ固い。

猛暑故に、送付中の傷みを回避すべく少し早めに収穫されたのかもしれない。

そうして、良い香りがするからと切っては、まだ固かったと思いながら食べていたある日。


朝起きると、喉の奥にピリピリするような違和感を覚えた。

風邪かな?

と思ったけれど、身体のだるさも熱っぽさもない。風邪特有の体感覚がまったくない。
どちらかといえば、喉を酷使した翌日みたいな感じ。


なんだろう?


数日頭をひねりながら、強くなる喉の不快感に困っていたが、ふとあることに思い至り、インターネットで検索をしてみる。


桃アレルギー


検索は大ヒット。
バラ科の未成熟の果物には、種にアミグダリンという、分解過程で青酸カリになる成分があると書かれていた。

連日固すぎる桃を食べていた私は、まさにピンチじゃないですか。
しかも、つい先日まで毎日さくらんぼを食べる生活を、3週間ほどしていたばかり。まさかのバラ科の果物食べ過ぎ?!


そこで桃を食べることをピタッと止めた。


しかし、食べるのを止めても喉の不快感は増すばかり。
増すことってある?
ますます不思議になった私は、ふとあることに気がついた。

外に出かけている間は、喉の不快感が和らいでいることに。

一番症状が酷いのは起き抜けで、寝る前には必ずエアコンをタイマーで入れているということに思い至る。


もしやもしや。


気づいた瞬間、エアコンの取説を出して掃除を始める。
我が家のエアコンは、自動お掃除機能付きのめちゃくちゃ高価なものだったので、自動お掃除をこまめにするだけで今年はまだ手動の掃除をしていなかった。

洗える部品を全てはずすと、ホコリだらけ。

何が自動お掃除機能だ?
そんなものに惹かれて高額を支払ったあの日の愚かな自分をぶっとばしたいことこのうえない。
だって昨年もきちんと部品を洗って掃除をしているし、寒い間の暖房機能は使わない。
今年暑くなってから、たった数ヶ月ほど使っただけで汚れていたということだ。
正確には、7月に3週間ほど使わなかった間にカビまではえていたのかもしれない。


説明書には、脱臭フィルターは陰干しをするように書かれていた。
けれど陰干しでは臭いは取れない。
臭いが取れなくなったら、取り替えフィルターを買えと説明書には書かれていた。
試しに日光にバッチリ当ててみたらすぐに臭いがキレイに取れる。
そりゃあそうだよね、日光で簡単に殺菌なんてしちゃったら取り替えフィルターなんて売れないもん。
干しっぱなしにしていればプラスチックが劣化するかもしれないけれど、日干しすれば臭いはすぐに取れるから、ほんの一瞬のこと。


そうしてエアコンを掃除してみたら、喉の不快感は徐々に収まった。

桃ゴメン、アミグダリンは冤罪だったみたい。・゚・(ノД`)・゚・。


そもそも、毎年季節になると、さくらんぼを始めとしたフルーツを山ほど食べまくってきたのに、今年だけアレルギーを起こすはずも無し。


私の喉の不快感は、ハウスダストやカビの吸い込みから起こったものだったようだ。

しかし、高価なエアコンにする前は、ろくに掃除をしなくても喉がおかしくなることなんてなかった。
耐用年数を越えて、風といっしょに水を撒き散らすようなエアコンですら、私の喉にはなんのダメージも与えていない。

しかしこの高価なエアコンは、夜でも眩しい明かりを発するわ、部屋が冷え過ぎても悪びれずに冷風を撒き散らしてくるわ、前につけていた適価のエアコンが自動で室温を調整してくれたのに対して、馬鹿の一つ覚えみたいな動きしかしない。
山ほど余計な機能がついているくせに、肝心のエアーコントロール機能はクソなのだ。

そのせいで、手動でつけたり消したりを繰り返しているせいで、カビやすいのかもしれない、と思った。

喉の不快感は収まったけれど、メーカーに対する不快感は高まった(笑)
次回に買うときは、絶対このメーカーの家電は買わないぞと決めている家電メーカーは2社ほどある。


そんなこんなで、冤罪のアミグダリンのために食べるのを控えていた桃を、エアコン掃除をした翌々日に、久しぶりに食べてみた。

桃は柔らかくとても甘くなっていた。


なんだか、固いまま急いで食べようとしていたことを、桃に謝りたくなる瞬間だった。



高価なものが良いものだとか、大手メーカーのものなら安心だとか(書いちゃった😂)、無知でおろかで他人軸極まりない当時の自分自身の買い方に打ちひしがれた出来事だったけれど、久しぶりに桃を食べる際にはそれらとは思い切り間逆なことをしてみた。


まずは、桃にアレルギーを起こすかどうかは自分の身体に判断してもらうことにした。

感覚を研ぎ澄ませ、全集中で桃を口に入れる。
口の中で桃に対する拒否反応があれば、それを感じ取ろうと決める。

桃の果実はとても美味しく感じられたけれど、桃の皮は舌に違和感を受け、出したほうが良いと感じた。

もしかしたら、エアコンだけのせいでもなくて、未熟な桃を皮ごと食べていたことで、弱った喉の粘膜にエアコンのカビが悪さをしたというダブルパンチが起きていたのかもしれないと感じられた。


この教訓を得た後に、アメブロでたまに見るハワイ在住の方のブログに、これと似たことが書かれていた。

信じるべきと叩き込まれていたものが世の中にはあったのだと、目から鱗がこぼれまくるようなことがたくさん起きる。

何を信じるのかは自分の裁量だ。

であるならば、自分の体感で信じるものを決める。

その決意こそが、 生きる 意味そのものなのかもしれない。


そんなことを、思った。