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奴隷頭と手負いのうさぎ
それは、苦労を乗り越えて名声を手に入れることかもしれない。
または、解脱して特別で素晴らしい私になることかもしれない。
そうして手に入れた「私」を、他の誰かと比べては、誰かよりはマシなのだと確認して安堵する。
小さな箱庭の中で、狭い世界を睨み据えて戦々恐々としている。
誰か特別な人に認められて、お墨付きを貰って、褒めてもらって、私は大丈夫なのだと確かめて過ごす。
烏合の衆の中で、ほんの少しだけ優位に立てた自分を誇る。
そんなことが、とてもとても、当たり前の景色に見える。
周りの人たちと自分を比べて、頭ひとつ抜きん出たいと思っている。
まるで出世した奴隷が、奴隷頭の地位を手に入れるかのように。
そんな奴隷頭に必要な存在がある。
それはまるで手負いのウサギのように、ふるふると震えて縮こまっている。
こんなにビクビクしている自分は害のない存在なのですよ。だから、攻撃しないでくださいね。
そんな風に自分を護ることを覚えた手負いのウサギは、奴隷頭にとっては格好の獲物になる。
「可哀想に。もう大丈夫だよ。気の毒な手負いのあなたに、恵まれた地位の私は危害を加えるような真似はしないからね。」
そう、優しい微笑みを浮かべて、気の毒で可哀想な手負いのウサギに慈悲を垂れることで、ますます素晴らしい、立派な、評価され得る私を演じることが出来る。
評価が欲しい奴隷頭にとって、手負いのウサギは都合良く自分の邪魔にならない程度に、そこら辺に居て欲しい存在なのだ。
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そんな事をやっていながら、健全な人間関係など築けるものだろうか。
健全な人間関係とは、何か余計なものが乗っかっていない状態で初めて結ばれ得るもの。
人間関係に苦しんでいる時に、点検してみる。
私は奴隷頭になろうとしていないだろうか。
私は手負いのウサギになろうとしていないだろうか。
※進撃の巨人のイメージが合わせてありますが、あの世界で描かれていることでもあり、
だけど身近な世界で、当たり前のような顔をして行われていることでもある。
そう感じたのです。