生産性がなくたって、価値がなくたって、生きていていい。〜朝井リョウの「生殖記」を読んで〜
朝井リョウさんとの出会いは「正欲」である。映画化されて話題になっていたので、今年の3月に読んだ。そこからハマり、もともと夫が朝井リョウさんのファンで、著書をたくさん持っていたこともあり、「桐島部活やめるってよ」「何者」「何様」「死にがいを求めて生きているの」「どうしても生きてる」「ままならないから私とあなた」をこの半年ほどで読んできた。人間や社会に対するあまりの解像度の高さと鋭さに、息が苦しくなることが多々あった。彼は、おそらく誰もが心の奥では感じているが、言語化できなかったり、あまりに鋭いので言語化を避けたりしていたことをやってのけている。そして、それに伴う社会風刺が、多くの人が彼の作品に惹かれる理由であろう。
以下、私の個人的な「生殖記」の感想を綴る。解釈が間違っていることもあるかもしれない。彼の伝えたかったことはそうじゃない、かもしれない。私の理解力が足りていないかもしれない。ただ、感じたこと考えたことを綴るので、できれば温かく受け入れてほしい。また、鋭いと感じた描写を全て取り上げると、作品全ての描写に触れないといけないことになるため、特に印象に残った二点に絞って、感想を述べることにする。
「生殖記」は、「正欲」から3年半ぶりの長編作品ということである。「正欲」は性欲に関連していたため、本作も何かしら生殖器に関する作品であろうとは想像していたが、読んでみると、想像していたものとは違った。本作も、人間や社会に対する解像度高すぎ&鋭すぎである。どちらかと言えば、責められているというよりは、救われるような気持ちになった。あと、語り手が少しコメディタッチなのもあり、比較的苦しくならずに読めた気がする。というか、あの語り手だから読めたのかもしれない。読後も「正欲」に比べれば、かなり爽やかである(後述するが若干のもやもやはあり)。「正欲」がちょっとヘビー過ぎただけかもしれない。もしくは私の痛いところを突かれ過ぎたためか…
「正欲」の話はここでは置いておいて、「生殖記」の話に戻す。
「LGBTQの人たちは次世代を生み出せないから生産性がない」という発言は、本作の中だけではなく、現実にあった話である。私は当事者ではないが、その発言に対して憤ったことを覚えているし、今でも思い出せば腹が立つ。じゃあ、子どもを産まない、産めない女性も生産性がなく、生きている価値がないのか、と。女性にとっても「生産性」という言葉はナイフだ。生産性がない、と言われるのは、生きている価値がない、と言われたように感じた。そして、なぜ他人にそんなことを言われないといけないのか、なぜ勝手に生産性で評価されるのか、そもそもなぜ評価されないといけないのか、怒りが沸々とした。そもそも、お前らに評価される筋合いはないだろ。「正欲」の大也の言葉が浮かんだ。
件の発言が論外であることはもちろんだが、本作を読み、そもそも「生産性がない」と言われることで「生きている価値がない」と傷付くことも、ある種偏った考え方なのだと悟った。
あの発言に傷付くということは、私も「生産性」に価値があると考えていた、ということだからだ。そして、価値がないと生きていてはいけない、と考えていたということだ。やはり彼にはハッとさせられる。自分の痛いところを突かれる。だから、読むのが苦しくなることが多々あるのだけど…そうか、そうだよね。生産性がなくたって、価値がなくたって、ここに存在していていい。そう思うことができて、救われた。
また、「ヒトは人間であるために、常に成長を求め、自分自身を新商品化し続けている。それがヒトの行動原理になっている」という指摘も鋭く、最近私が感じていたことをズバリ言語化されたと感じた。
休職中は考える余裕もなく、ただ生命を維持することで精一杯だったが、退職してからは必死で”次”の行動原理を探していたように思う。妊活を始めてみたり、それに伴って健康を意識して食事に気を配ったり、運動を始めたり。そして最近、学童のパートに応募してみようと思ったことと、目標体重をクリアしたことは無関係ではないように思う。無意識に”次”の行動原理を探していたのだ。そもそも、休職に至ったのも、この「新商品化」の影響かもしれない。当時、教員としての自分の成長に限界を感じていて、”次”へ進みたかったのかもしれない。同時期に、子どもを持ちたいと考えるようになったのもやはり無関係ではないのだろう。行動原理を”仕事”から”子育て”に移し、「新商品化」したかっただけなのかもしれない。なんとなく、ここ最近の自分について理解が深まった気がした。そして、きっとそれは私だけではなくて、他の人も考えることなのだろうな、と思うことができた。
はじめに、読後は「正欲」よりは圧倒的に爽やかだが、多少のもやもやはある、と書いた。それは、尚成は本当にそれで良いのか、と感じたからだ。でも、これを書いているうちに、きっとそれで良いのだろう、と思えてきた。むしろ、それで良いのか、と疑問を持つこと自体が選択できる側の傲慢なのだろう。生きていくための行動原理はなんでも良いのだ。そこに、間違いなんてものはないのだ。
彼の、次の作品も読みたい、というのも一つの行動原理になるだろうか?
朝井リョウ. 正欲. 新潮社, 2021, p.339
朝井リョウ. 生殖記. 小学館, 2024, 290p.