子ども観、保育観、子育て観。ちいさな違和感。
公園でであったもやもやの話。
息子たちと公園で遊んでいると、近くの幼稚園と思わしき一団が。
とってももやもやっとしてしまう出来事に遭遇?目撃?してしまったので、吐き出さずにはいられなかったので文章にしてみました。。
捉え方、感じかたは人それぞれだし、私の見方が偏っているのかもしれないけれど、問題提起したい出来事でした。
車の通りがある場所だから、道の向こうにはいかないことなど一通り先生から説明があった。ベテラン先生、めっちゃ怖い。説明するだけなのにめっちゃ高圧的。。と、その時すでにかすかな違和感。
終わった後、三々五々、自由に遊び始めた。
今さっき先生が話していた車道の方へさっそく向かおうとした3歳児と思われる女の子に向かって「〇ちゃん!話聞いてた?」とものすごい剣幕で指摘するベテラン先生。
(たしかに行ってはいけないよ、と言われた方へ5秒後に行ことしていたけれど、そんなに怒鳴った物言いをしなくても良いのでは…)
すれ違いざま、先生と「こんにちは」「家お近くですか?」とあいさつを交わす。
「わたしたちは近くの幼稚園でね、運動会がおわったので久しぶりに遊びに来たんですよ~練習があったのでしばらく来られていなくてね。」なんて会話も交わす。
(遊びに来られないほどの練習が必要な行事かぁ…)
お腹の空いた息子と、少し早めのお弁当を食べている間、公園のベンチからなんとなく様子を眺めることになった。
一番ベテランと思われる保育者が、ブランコで遊んでいる女の子を「△ちゃん、こっちに来て!○○先生と一緒に滑り台滑りなよ~」といって、少々距離のある滑り台のほうから呼び寄せる。
「○○先生もこっち来て~!」
ベテラン先生に呼ばれた○○先生とは一番若手と思われるかわいらしい先生だった。
○○先生は呼び寄せられた女の子を膝の上に乗せ滑り台を滑る。。。のかと思いきや、途中で止まり、
「こっち向いてー!はいチーズ♪」(byベテラン先生)
(ブロマイドかいな!と思わず心の中で叫んでしまった!)
さぞかし良き写真が撮れたであろう。
写真販売で買う保護者の方たちは、こんなふうに切り取られた写真だとは疑いもせず、○○先生と楽しそうに笑顔で写っている我が子の写真を喜んで買うのかな。
なんだかな、もやもや
子どもたちから何度も向けられる「せんせ、こっちきてぇ~!」の声にも振り返らず、ベテラン先生は撮った写真の確認に夢中。
「ああ、ぶれてる、○○ちゃ~んもう一回こっちに来て~!」
(え!!!!!!)
先ほどと同じ流れでブロマイド撮影が行われていた。。
そして、あちらではブランコで遊んでいる子たちを見守っている若手先生。
「せんせい、おして~」の大コール。
座席が4つあるブランコだったので、若手先生は背中を押しては移動し、背中を押しては移動し、をものすごい機敏に繰り返していた。
(反復横跳びかいっ!)
なんか違う感がすごい。
先生に押してもらって楽しい、その心地よさももちろん嬉しいけれど。
ブランコって、自分の足を曲げたり伸ばしたりすると、高くなったり早くなったり、どうしてあの子はあんなに高く漕げるんだろう?くやしいな、僕も。そうやって試行錯誤できる余白のある遊具じゃないの…?
もっと言ったら、子どもたちは、そんな小難しいことを考えてもいないかもしれないけれど、楽しさの中でそうやって自然と試行錯誤が生まれているのではなかろうか。
そしてベテラン先生
「危ないからブランコの前には来ないっ!」
と監視の目を光らせる。
「○○くん、ずっと乗ってるから△△ちゃんに代わってあげなさい!」
「△△ちゃん、ありがとうでしょ」
なんだろうか、端から見ていただけだから実際はわからないけれど、ものすごく子どもたちが置き去りな感じ。
待っている子は乗れなくてかわいそう
ずっと乗っている子はずるい
本当にそう?大人から見たら、そう見えるかもしれないけれど。
当事者の子どもたちはどう思っている?
例えそう思っていたとして。
大人が仲介に入ることだってあると思うけれど。
なかなか貸してくれないねぇ、
貸してって言ってみようか、
ずっと待っているねぇ、
どうしたらいいかねぇ、
何往復にも渡るやり取りや交渉
それぞれの心の動きが生まれ、交差するチャンスじゃないの?
大人が采配して、スムーズに事は運ぶかもしれない。
でも、なんか……
私はそんな保育は楽しくないな、って思っちゃった。
極めつけは、
「危ないからブランコの前には立たないの!」と怒っていたベテラン先生が
「はい、みんな~こっち向いて~!」とブランコの目の前に立って前のめりで写真を撮っていたこと。
口にする「言葉」と実際の「行動」にズレが生じていないか。
なんだか、自分は日々どう接していたっけな、と改めてわが身を振り返って考えるよい機会をもらったなぁと。
一部始終を見て感じたこと。
ああ、きっと、このベテラン先生や、この園の保育の通例とか文化とか、この園の中でよいとされている保育、見えてる子どもの姿は、自分の大切にしたいと思っている価値観とは全然違うところにあるんだろうなぁ。ということ。
私は、シンプルにこの保育はしたくないと思ったし、我が子も預けたくないなぁ、と思ってしまった。
自分が感じたこの、小さいけれどたくさんの違和感は、間違ってはいないと思っているのだけれど、今の社会の中では、実際のところ、結構、圧倒的に少数派で。
「遊ぶ」ということの捉え方も。
公園に来て、元気に先生とブランコ漕いだり滑り台滑ったり。
それ以外の
公園の隅の木を、ひとりで長い枝で下から突っついて葉を揺らしていたあの子や、
ひっそりと葉っぱを拾い集めて宝物袋にしていたであろうビニール袋が風でこちらの方へ飛んで来て、手渡したらにこりと笑ったあの子や、
公園の隅で足を引きづって砂埃をおこしていたあの子や、
「いたよ~」と私たちにアリを見せに来てくれたあの子。
そういう、他愛もない、ぱっと見何をしてるのかな、
目を凝らすと確かに心が動いている。
そんな彼らの大切な瞬間瞬間は、あのベテランの先生の目には届いていたかな。
ちゃんと、届いていたらいいな。
違和感を感じていることにさえ、時々自信が無くなって心が折れそうになってしまうことさえある。
でも、やっぱり、私は知っちゃったから。
子どもたちの傍らで過ごした中で、もっとぐちゃぐちゃだけど、その中に生身の人と人のやり取りとか、心の機微とか、繊細な感情の揺れ動きとか、そういうものがたまらなく面白くて、愛おしくて、そういうものが本当の意味で人が生き、育ち、暮らしてゆくことだと思うから。
知らない土地で、3歳になったばかりの息子の、次の春からの少々出遅れた園探しをはじめた矢先に出会った公園での小さな出来事だったからこそ、余計に気になってしまったのでした。
同時に、こんな小さな出来事の中にも、違和感を持てるようになったのはプレイワークや森のようちえん、そんな界隈の子ども観や保育観、考え方に出会えたことが間違いなく軸になっている。
子どもの捉え方、大人の在り方。
既存のなにか、や、当たり前の日常、その中で感じた違和感を見逃さず、真に何が子どもたちにとって最善かを問い続け、妥協せず行動し続けてきてくださった先人たちが築いたものが概念化したものがプレイワーク、や森のようちえん、と呼ばれているんだろうな。
だから、私はそういった価値観にものすごく惹かれるんだ。
どちらが正しいか、正しくないか、よりも、こんなふうに子どもを捉えられるようになったら、子どもたち自身も、大人たち自身の心も身体も緩むし、心地よい状態で在れるのだろうな。
(いや、小さな声で言えば自分の違和感の方が正しいと思っている。笑 けれど正義を振りかざすだけでは一生平行線とも思う。)
フリースクールに対する市長さんの発言や、我が故郷の子ども虐待の条例の話など、子どもを取り巻く考え方について心がざわざわすることの多い最近ともつながってくるのかな、なんてくるくる思考を巡らす日々です。