ウォンカーウァイと私の夏。
「ウォンカーウァイ」と聞くと苦ーい気持ちで首を振ることを繰り返してきた。
中国語を勉強し始めて早6年。
中華圏の文化に惹かれて、中華圏の映画はかなり熱心に見てきたが、唯一手が出せていないのがウォンカーウァイだったのだ。
7.8年前に動画配信サイトで2046だったか花様年華を見ようかとしたこともあったけど、
よくわからなくて開始20分くらいで見るのを諦めてしまった記憶がある。
そんなこんなで、ウォンカーウァイにはなんとなく苦手意識があったから
大好きな映画館のシネマート心斎橋で、
今回の4K一挙公開の予告が流れたときは特に見に行くつもりもなかった。
けれど、8月20日の土曜日。
友達と遊びに行くはずが前日にキャンセルを喰らってしまった私は、なんとなくその空白の土曜日が許せず、スケジュール帳の土曜日の欄に半ばやけくそに「花様年華」とかきこんだのである。
これが全ての始まりだった。
もともと、
息も付かせぬ展開や、衝撃の結末、
「感動の実話」なんていうセンセーショナルなものが大好物な私にとって、
ウォンカーウァイの映画がいかに世間的にもてはやされていようとも、
そのあらすじの数行に魅力を感じることはできなかった。
しかし、先ほども書いた通り空白の土曜日に耐えかねた私は何はともあれウォンカーウァイにむきあうことになったのである。
あまりにも色鮮やかなチャイナドレスと、
華麗なピンヒール。
気だるげで艶かしい広東語。
刹那を生きる人々だけに流れる一瞬が永遠になる時間。
そこからは夢中で、次の日は「2046」そしてそのさらに次の日に「ブエノスアイレス」さらに続いて「恋する惑星」「天使の涙」と結局私は連日の映画館通いを余儀なくされた。
ちゃっかりスタンプカードももらって、粛々とスタンプを集めた。
映画館で発券して、
瞬きも惜しんでスクリーンを食い入るように見つめて、夢中でその世界の中に身を投げだして、心ゆくまでウォンカーウァイの世界を貪った。
「天使の涙」を見終わって、ポスターをもらったけど、この映画館通いが終わるのが悲しくて寂しくて、未練がましくテアトル梅田に特別上映の「欲望の翼」も見に行った。
上映時間に間に合うように就業時間より少し早めに会社を脱走して電車に駆け込む高揚感。
映画館めがけて駅を駆け抜けていく自分を映画の中の香港の若者たちと重ねてワクワクする時間が大好きだった。
ウォンカーウァイの映画に、なぜここまで嵌まり込んでしまったのだろうか。
それには私のもつある願望に由来すると思っている。
1995年生まれ。
現在26歳のアラサーに一足踏み込んでいて、
月から金まで真面目に働くサラリーマンの私には、
いい歳して
「恋愛に狂ってメチャクチャになりたい」
という荒唐無稽な願望があるのである。
10代の頃からこの訳のわからない願望を持ち続けているのだけれど、いつか消えると思っていたこの願望は歳を重ね、私に社会的な立場がついて、かっちりと型にハマればハマるほどむくむくと大きなものになっていく。
花様年華では、
お互いに「家庭」というものがある男女が自らの日常生活と矜持を掛けてギリギリのところで綱渡りを繰り広げる。
そして、最終的には誰にも言えない。
知られてはいけない、恒久の時の中にあるアンコールワットに閉じ込めるしかない秘密を作り上げてしまう。
ブエノスアイレスでは、
互いに死ぬほど一緒にいたい2人が香港ではうまくいかず香港から見て世界の果てのブエノスアイレスにたどり着くところからはじまる。
お互いがお互いと共にいたいが、
共にいれば傷つけあい、破壊しあうことができない2人。
最後には一方は永遠に2人の思い出の中に閉じ込められて愛の再来を待ち続けることになる。
恋する惑星と天使の涙では、
死ぬほどたくさん人がいる香港という都市で
自分の片割れ、自分のための誰かを求めて、
全ての者が孤独を抱えてそれを埋めるものを求めて香港をめちゃくちゃに走り回る。
そして、2046では
かつての記憶から先に進めない男が永遠に思い出と記憶の中に閉じ込められて、過去の思い出のかけらを拾い集めるようにさまざまな人物とすれ違う。
香港という一分、一秒で姿を変えてしまう場所の中で、その香港と同じように一分、一秒を永遠にして恋愛に狂っていく人々の瞬間を一瞬たりとて逃さずに真空パックの中に閉じ込めてしまったのがウォンカーウァイの映画なのだ。
破滅する勇気もなく、捨てるには大きすぎる立場を背負ってしまった私は、きっとウォンカーウァイの映画では通行人くらいにしかなれないだろうけど、
スクリーンの中では皆、人を愛すること、人と繋がること、人の温もりに飢えていて、ある者は踏みとどまり、ある者は気が済むまで追い求め、ある者は愛した記憶と秘密によって永遠の時間の中に閉じ込められてしまう。
その全ての姿が、私が昔からぼんやりと持っていた願望の
「恋愛に狂ってメチャクチャになりたい」
を体現した姿なのだ。
だからこそ私は、まるで操られたようにスクリーンの前に足を運びその世界をどこまでも夢中になって見つめ続けていたのだと思う。
ギリギリのラインを守りながら最後にはチャウとの巨大な秘密を作り上げてしまうチャン夫人
あまりに自由奔放で相手を攻撃し、挑発することをやめられないウィン
相手を愛し過ぎて閉じ込めてしまうファイ
愛した男を追いかけ回して最後は頭がおかしくなって無惨に死んでいくミミ
人と向き合い、誰かを愛してみたいと思った瞬間にあっけなく命を手放してしまう殺し屋の男
彼に触れるタイミングをのがし永遠にすれ違ってしまったエージェントの女。
チャン夫人との思い出の中に自らを閉じ込めて、彷徨うことを選んだチャウ。
ある時はギリギリのラインを守り、
ある時は簡単に一線を超えて、
またある時は命を落としてしまう。
今日を生き尽くし、今を貪る者たちだけに訪れる永遠の瞬間は、どこまでも美しく猟奇的な魅力に満ちている。
そして、それは平凡に日常を踏みとどまることしかできない、私のような人物にはあまりにも眩しい輝きで、だからこそ私はあんなにも夢中になったのだと思う。
スクリーンを眺める間中、
あの世界の中に自分も入りたい。
私も、あの世界の中で愛に狂って破滅したい。
と、強烈に思ったけどそれができないこともわかっている。
だから、せめてガラス越しに観れる宝物を愛でるように何度でもこれからもウォンカーウァイのフィルムを見返して見つめ続けたい。
新型コロナ3年目。
香港に行けない最後の夏だった。
閉塞感と眩暈がするような安定に閉じ込められてしまっていたこの夏にウォンカーウァイの映画に出会えてよかった。
私の恋人が生まれ育ちこれからも生きていく香港の幸福な未来を信じて。
私も明日から諦めず、懲りずに、何かを求めて有り余るエネルギーを爆発させて、
都会を疾走する若者でありたい。