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オカンのブチギレvs少年ジャンプとドラクエに没頭したぼく

※この記事は有料ですが、全部読めます。

個人繁栄ドキュメンタリー作家のハル(@harumizuki423)です。


「忙しくて好きなことをする時間がない。」という人がいる。

長時間労働、育児、介護など、誰もが忙しさや社会問題に飲み込まれる時代なので、この記事を読んでいるあなたも、もしかしたら「没頭」することから長らく遠ざかってしまっているのかもしれない。

でも、ぼくは改めて「没頭」することをオススメしたい。なぜかというと、何かに「没頭」している時こそ、生きている楽しさを感じたり、クヨクヨ考える時間も少なくなるからだ。


ここで、ぼくの子どもの頃の「没頭事例」を少し紹介したい。

小学生の時、チョコモナカやポテトチップスを食べながら少年ジャンプを毎週隅々まで何度も読んだり、ファミコンのドラゴンクエストやファイナルファンタジーというゲームをしながら実家の2階の自分の部屋で毎日を過ごしていた。

「ご飯できたで〜!降りてきぃ!」


1階から呼ぶ母の声は「没頭中」のぼくの耳には全く届かない。ぼくはご飯を食べるのも忘れ、少年ジャンプとゲームに「没頭」し続ける。


「ガチャ!!」


力強く部屋の扉が開き、母が鬼瓦のような顔でこちらをにらんでいる。


「ご飯できたいうてるやろ!!何回言わせるねん!!はよ降りてこんかい!!漫画もゲームもほかしてまうぞ!!」


息子にご飯を食べさせるための「ブチギレ」によって「没頭タイム」は一時中断する。しかし、ご飯を食べた後にまたぼくの「没頭タイム」は何事もなかったかのように再開する。


中学生になってからはエレキベースに「没頭」した。L'Arc~en~Cielのtetsuya(当時:tetsu)モデルのベースでラルクの曲を片っ端からコピーしまくって、ベースを抱えながら寝ていたくらいだった。

「没頭」する対象は変わっても、「没頭タイム」は継続していた。寝食を忘れて何かに「没頭」することこそが毎日の楽しみだったのである。


しかし、母を何度何度もキレさせていた(悪気はない)ぼくも年を重ねるうちに「没頭タイム」が少なくなっていった。


ここで改めて、

・なぜ「没頭タイム」は大人になるにつれ減っていくのか

・なぜ「没頭タイム」をオススメするのか

をシェアしたいので、しばしお付き合いください。



公園でボール遊びをさせてもらえない子どもたちがいるという事実

「この公園ではボール遊びは禁止です。」というこんな看板をいつからか見かけるようになった。

ぼくが子どもの頃は、こんなわけのわからない看板などなかった。

友達とサッカーをしたり、ドッジボールをしたり、自分たちでオリジナルのルールを作って自由に遊んでいた。しかし、今事実として公園でボール遊びができない子どもたちが存在しているのである。

一人で何かに没頭するのも良いが、チームで何かに没頭するのも気持ちが良い。公園でのボール遊びは没頭力やチーム力を育む大切な学びの場だった。



「没頭タイム」を邪魔するのはなんだ

「◯◯しろ」という強制と「◯◯するな」の禁止。

上にも書いたが、小学生の頃は母にブチギレられようが、少年ジャンプを読みたかったし、ゲームもしたかった。

ここで大事なのは、「少年ジャンプを読め!」とも「ゲームしろ!」と言われていないのに没頭できた。ということだ。逆にそう言われていたら没頭をやめていたかもしれない。

公園の「ボール遊び禁止」は後者で、「没頭タイム」を邪魔しているのである。そもそも、誰がなんのために禁止しているのか?


まず、誰が禁止しているのかについて考えてみる。

少なくとも25年前は、ぼくはまだボール遊びができていたので、その後に禁止する人が登場している。彼らはどのようにして生まれ、世の中に登場したのだろうか。


没頭することを長らく禁止されてきた人たちが「公園でボール遊びは禁止ね」というわけのわからないことを言う人たちになってしまった


・勉強せぇへんかったら高校いかれへんぞ

・好きなことは大学に行ってからすればいいやろ

・就職してからやればええやろ


これらの言葉に聞き覚えはないだろうか。

ぼくは高校受験、大学受験、就活というタイミングで親や学校の先生から「◯◯禁止」と強制されることが多くなった。

「没頭を我慢することが幸せになるんだよ」的な言葉を日々浴びていくと「没頭タイム」をとることが少しずつ少しずつ減っていった。


「良い高校や大学に入り、安定した企業に入り、結婚・出産をし、マイホームを買い、退職金をたくさんもらって年金暮らしをするという「安定のレール」を目指すことこそが正しいんだよ」と教え込まれ、ロボットのようになってしまった人たちからすると、「没頭タイム」は邪魔でしかない。


しかし、ぼくがこの記事の冒頭で書いたことを思い出してほしい。

何かに「没頭」している時こそ、生きている楽しさを感じたり、クヨクヨ考える時間も少なくなる。「没頭」こそが人生を豊かにする行動だ。



従順で機械のように言われたことをミスのないようにこなす「ロボット人間」が、公園で子どもたちがボール遊びをすることを禁止してしまった。

さらにいうと、喜怒哀楽の感情表現をもたない「ロボット人間」は、人間としていちばん大切な「体温」を失ってしまったのである。「体温」をもたず、対話もしない彼らは一方的に【法律や規則】という形で「強制・禁止」を言い渡すのである。


「ワタシタチモズット禁止サレテキタンダカラ、アナタタチモ我慢スルノガアタリマエデショ。メンドクサイカラアレモコレモ禁止シマス。」

そんな彼らの業界の「常識」に社会は覆われてしまった。教育の力というのは良くも悪くもすごいチカラを持っている。


しかし、そんな「ロボット人間」に危機が迫っている。

本物のAI・ロボットが「ロボット人間」を職場から駆逐しようとしているのだ。計算速度、作業スピードとその正確性では「ロボット人間」はAI・ロボットにはとてもかなわない。

ようやくAI・ロボットにできないこと、人間だからこそできることをしっかりと考える時代になったのである。



今必要なのは、子どもたちに強制・禁止をする大人ではなく自由・機会を与えようとする大人

AI・ロボットは、人々から職業を奪っていく。(ぼく個人としては「人が嫌がることをAI・ロボットがやってくれてラッキーな時代になる」と思っている。)

これからは「ロボットタイム」に支配されるのではなく「没頭タイム」を増やし、AI・ロボットにできないことで、社会や人々のニーズを満たす職業を創り出していく必要がある。


ここで、365日配信しているラジオ番組「関西PEYちゃんねる」の昨日の放送のテーマが「教育」だった。パーソナリティの大川さん(@hiroaki_ohkawa )からの話が興味深かったので、少し紹介したい。


NPO法人「奈良情熱学校」という団体がある。

この団体のみなさんは隔週日曜日に、里山で子どもたちに野外活動体験の機会を提供している。子どもたちは自然の中でノビノビと自由に体を動かし、農業体験や、そこでとれた野菜でパスタを作ったりしている。

インターネット時代になり、情報・知識にカンタンにアクセスできるようになったので、教科の価値が下がった。今、子どもたちにとって価値が高いのは体験だ。素晴らしい取り組みだ。

大川さん(@hiroaki_ohkawa )は、奈良情熱学校の代表の田中さんと親交があり、田中さんが主催している「奈良に新しい学校を創る集い」という有志の会合にも参加している。この会合に集まるメンバーは、学校の先生、靴職人、農家、主婦、システムエンジニアなど多様。ぼく自身、この会のみなさんの今後の展開に注目している。(また動きがあったら今度書きたい)


AI・ロボットにできなくて、人間にしかできない働き方・生き抜き方を学べる場所が必要だ

日本には義務教育・公教育としての学校がある。また、不登校の生徒を受け入れるフリースクールもある。このどちらにも不足しているのが、好きなことに没頭できる「体験型学習の場」だ。

学校での子どもたちの成績の傾向が変わってきていて、従来では100点満点でいうと、50、60点あたりをとる子が多かったけど、今は点がとれる子と、とれない子の差が開いてしまっている。

【この傾向に対する大川さんの持論】
成績で点をとることができる子と、とれない子がいあるのは特に悪いことじゃない。これまで日本の教育では「通信簿オール3」が良しとされてきたけど、それぞれの個性が発揮されている結果だ。


大川さんの持論にすごく共感した。

学校の「点をとる教育」に適応できる子がいる。しかし、それに適応できない子もいるし、点をとることに意味を見いだせず(ぼくもコレ)それ以外で自己実現をしている子がいる。

点をとることが大事という親子もいれば、点をとることよりも大事なことがあるという親子もいる。もちろん、どちらの方針を選ぶかは自由だ。しかし、点をとるための教育に意味が無いと思っていて、体験型学習を優先したい親子(子どもだけじゃなくて、親もね!親も没頭できる場←ここめっちゃ重要!)はどこにあるのだろうか。



ぼくが考えている『ルイーダプロジェクト』はまさに体験型学習の場

ルイーダプロジェクトについての記事は↓↓
【公務員辞めます】日本を元気にする「ルイーダ(仮)プロジェクト(冒険塾)」

大川さん(@hiroaki_ohkawa )も「幼稚園上がりの子どもたちを集会所などで預かって体験や学びの場を提供したい」と考えている。


子どもに「没頭」の機会を与えられるのは大人しかいない。「強制・禁止」のシャワーを子どもたちに浴びせるのはもうやめよう。

「好きなことでメシが食えるのか!?」という言葉ではなく「こんなこと体験できる場があるけど?」と機会を提供していってあげてほしい。

幸い「没頭力」は子ども、大人関係なく備わっている。

その力を解放するのは自分自身だ。


【昨日のラジオ番組で出た話題から】

アメリカの国語は、人に思いを伝える教育。

日本の国語は、読み取る(空気を読む)を教わる教育。


空気が読めるのは良い面も悪い面もある。

ただ、読みすぎると「ロボット人間」になってしまう。


「自分はこれがしたい!」

そんな気持ちをもって何かに没頭してもらえたらぼくはうれしい。

「ルイーダプロジェクト」では、そんな場をつくっていきます。

一度きりの人生楽しみましょう。


ハル


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