依存。
依存する、と云う事に就いて
私というのは、恐らく「薬物依存」、「物質使用症」等と云ったところに近い特性を持っている。
「依存症」と云うならば、症状として自己或いは社会性を著しく侵す様な依存特性なんだろうなと推測出来る(医学的視点で云うならば未だ抽象的であるかも知れない)が、依存すると云う事に就いては精神医学、心理学の域でない。
依存と云うのは曖昧に、「無くてはならない」と云う観念である。
例えば私は、日々を生きる為に、薬の使用に依り、変な気持ちやエピソードを和らげる或いは無くす事を、している。
「日々生きなくてはならない」と云う前提からして導かれる「僕の特性を幾らか押さえつけて仕舞わねば」と云う観念。「薬の使用」は其の謂いであり、これが依存である。
依存が世間でよしとされないのは、違法薬物に依存する可能性を秘めていたり、しばしば社会性が損なわれるからであったりである。亦「自立していない」と云う風に見えてもおかしくない点も排他的な風潮を生んでいる気がする。一部に置いては薬への偏見も有る。
依存が世間でよしとされないのならば、何かに依存していると自覚している者は其れをひた隠しにせねばならない。
依存というものを客観的に考えて見ると此れは詰り、「依存先をあたかも自分の手足や五臓六腑の様に勘違いを起こしている状態」と言える。切り離したら血が出る。
自他の境界が選択的に薄まっていると云う事である。自分以外の場所に自分の意識が有るとも取れるし、最早自分の中に其れが有るとも感ぜられる。
これが必ずしも問題であるかと云うのなら、そうでは無いと言えよう。例えば子にとって親は依存先と言える。此れは「生きる」と云う事と「間違いを犯さぬ様」と云う超自我的抑制効果を親と云う外部組織に頼っているからである。此の依存を問題として切り離す事はしない。実際に自立していない事は問題であるが、成熟の過程により獲得される知覚経験に依り確立されるものであり、其れに関しては「仕方ない」と容認される。
経済は通貨に依存している、電力は石油に依存している、医療は医療関係者に依存している、明日の天気予報は今の天候観察に依存している、夜遅くの活動は珈琲と云うカフェインに依存している、私の生活は家にいる家族の家事に依存している、等。色んな感情が湧き上がるものであり、決して一様でない。であるからして、悪でない。
要点は唯ひとつ、依存はなんにも悪くないと云う事。倫理道徳に対立する部分が有ったり無かったりするだけである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?