あわいにダンス〈アフターシリーズ②〉【公演レビュー】ダンス批評 竹田真理さん
ダンス批評の竹田真理さんより、『あわいにダンス』の公演レビューをお寄せいただきました。どうぞご覧ください。
遊歩と観劇で体感するローカル・コモンズ・コミュニティ
15年前、NPO法人ダンスボックスが新長田に拠点を構えて以来、劇場の外に飛び出し、周辺地域の町中(まちなか)で踊るダンスは数多く試みられてきた。商店、民家、あるいは路上で、身一つあればかなうダンスの特性と踊るダンサーのスピリットが、むしろこちらが本来のあり方というかのように発露する。日々の暮らしの断片を庭先で淡々と遂行するもの、わらわらと出てくるダンサーたちが街をジャックするパフォーマンス、商店街のそこここに場所を占めたダンサーたちが思い思いの行為に勤しむもの。長田港で汲み上げた海水を劇場まで運び込んだ亡き松本雄吉・構想によるパフォーマンス作品も思い出される。形態は多様ながら、いずれも劇場の存在が地域のローカルな文脈との関わりのうえに成り立っていることをその都度確かめるように行われてきた。小松菜々子/振付・演出『あわいにダンス』はこの系譜にあらたに加わった試みだ。ただしこれまでにないユニークな点は町を遊歩するツアーの形態をとること。観客はツアーの参加者として公演のプレイヤーに組み入れられている。
長田港沿いの道路に面した小さなアトリエに集合した観客たちは4つのチームに分かれ、それぞれツアーコンダクターに率いられて歩く。劇場ArtTheater dB KOBEを終点とする道のりにはチームごとに異なるルートが設定されている。ツアーは20分の時間差で3回に分かれて出発、各回とも4つにチーム分けされているので合計12チーム、それぞれのチームに一人ずつツアーコンダクターが配される。遊歩のコースが複数ある上、ガイドの内容は個々のツアーコンダクターの話術に大きく左右されると思われ、12チーム×公演日程2日間=24チームの参加者は各々が異なる体験をすることになる。
私の参加したチームではツアーコンダクター氏のガイドにより、まず長田港沿いの道路が西に延びて須磨に通じる方角を確かめ、地理関係を大きく把握した。続いて駒ヶ林神社の脇を過ぎ、神社の板塀の由来を聞きながら別の大きな道路を渡り、低層の住宅が密集する駒ヶ林地区を散策した。新長田駅周辺はビルが建ち並ぶ都市の様相だが、駒ヶ林一帯は屋根が低く空が広い。家々の間を縫う毛細血管のような路地に足を踏み入れる。周囲の木々や家屋や地面、玄関先に置かれた道具やモノなどをガイドされるままに虫の目で視線に留める。このルートには空き地が多く、誰が創作したのか展示したのかアート作品の残骸が風雨に打たれるまま放置されていたりする。物干し竿、植木鉢などが戸外に置かれ、生活の匂いを伝えているのも下町ならではの風景である。自動車の入らない狭い路地では自転車やバイクが愛用されている。その中に特別に目立つ大きな三輪バイクが停められており、この家の「おばちゃん」が毎朝ヘルメットなし(法令どおり)でこれに乗り、姫路までパートに出掛けるのだという。あるいはこちらの学習塾には一風変わった先生がいて、とツアーコンダクター氏の妙に詳しいガイドには、そこはかとない可笑しみがあり、ディ-プな情報をいったいどのように仕入れているのか、謎のリサーチ力に唸らされる。虫の目で歩き、井戸端会議的な情報に触れ、空気の底を縫うように歩くことで、これまでアートフェスティバルやダンス公演を通して既知の町だったこの地区が新たなワンダーランドとして映り始める。
歩くことは身体を伴い、対象に分け入り身を浸して、事物や事象を体感することに等しい。その経験の中で思考が巡り想像力が始動する。都市の遊歩者は孤独と背中合わせだが、今回は集団で歩いたことに意味があったと考える。個人的な話をすると、この日私は杖をついての参加となったのだが、ほぼ初対面のチームのコンダクターやメンバーの方々が、私が遅れを取っていないかと終始さりげない配慮を見せてくれたのが印象的だった。偶然の集団でありながら一人も取り残すことなく目的地まで行こうとする意志が、メンバーの間に自ずと生じていたのだ。私たちは同じ船に乗り合わせている──ふいに沸いたこの発想は、命運を共にしながら旅をする集団のイメージにつながった。そして世界の各地で生き延びるために移動する人々の存在を想起させた。レベッカ・ソルニットは人間が生み出してきた歩行の歴史に巡礼やデモを挙げているが、地震や原発事故を経験し、現在ではウクライナ侵攻をはじめ世界各地で紛争、内戦、災害が頻発している今日では、その歴史に被災者や難民の存在を加える必要があるだろう。チームが辿るルートは駒ヶ林から長田地区へと入る。ツアーコンダクター氏は一本の道路を示し、その東側のエリアが阪神淡路大震災で火災に見舞われた地区、西側の電信柱の並ぶエリアが火災を免れた地区であると語る。そう、ここ長田は1995年の震災で甚大な被害を受けた地区である。ダンスボックスはこの地区のコミュニティの再生にダンスの力で貢献する道を、15年来、模索し続けてきたのだった。
ここまでは公演の前半、ダンスボックスの文字通りのバックグラウンドを五感で知るための行程であった。後半は劇場内での鑑賞となるが、お察しのとおりこれも通常の形式を解体した、いわば劇場批判としての「観劇」が仕掛けられている。ツアーの各チームは普段なら入ることのないバックヤードを通って広い劇場空間に出る。そこに広がるのは普段とは全く様子の異なるArtTheater dB KOBEの景色である。舞台と客席フロアの境界を取り払い一体となった空間で、いつもは裏方に徹する照明スタッフや美術スタッフが指示を出したり声を掛け合ったりして作業に勤しんでいる。衣装係はミシンを持ち込み巨大なクッション状のオブジェを製作中である。「自由行動」を告げられたツアーの参加者=観客たちは、作業を眺めたり劇場内に仕込まれた糸電話などの仕掛けで遊んだり、クッションのオブジェでくつろいだりする。ダンサーが二人(川崎萌々子、藤田彩佳)、料理のようなありふれた動作をエアーで行い、人が集う空間に「日常」の線を引き入れていく。この、空間、モノ、人の配置が物理的にも、また関係性においてもすっかり組み替えられた景色は、場所・機構・制度としての劇場のあり方を問い掛ける。人々が関与する「コモンズ」としての劇場の存立が、どのような主体のはたらきや関わりに拠っているのかを再考させるのだ。そのように全体は設計され、振り付けられている。観客はツアーコンダクターらによって一人また一人とダンスに誘い出される。闖入者が現れて場を掻き乱したり盛大に盛り上げたりといった特別なことは演出されない。代わりに、休日の広場のような穏やかな空気の中で、子どもたちも交えた観客が、船の赴くままといったふうに、しかし寛容さにおいては譲ることなく、成り行きに身を任せている。壁を照らすミラーボールがそんな広場=共有された場所=劇場を祝福する。小松菜々子が振り付けたのはコミュニティの生成のプロセスなのだ。最後にもう一度各チームが集合し、ツアーコンダクターのあいさつで解散、三々五々劇場を後にする。スタッフらによる撤収作業をいつまでも眺めながら余韻に浸る人々の姿が印象的だった。
以上、『あわいにダンス』の全貌を振り返ったが、お気づきの通り、いわゆるダンスは踊られず、視線を集める特権的なダンサーの身体も登場しない。川崎萌々子と藤田彩佳は鑑賞の対象というよりは上演を支える枠組みの一環である。誘われてフロアで踊る観客らのダンスが人に見せる表現としての類でないことは言うまでもない。本作が立ち上げようとしたのは表現ではなくその枠組み、絵ではなく額縁のほうである。ダンスが踊られる箱としての劇場と、箱を意味づける社会的文脈を、そこに人が赴く歩行の形式に組み入れ、最終的な上演の形に仕立てている。公演までの期間にはツアーコンダクターやスタッフが一人ひとりSNSで紹介され、小松と縁ある人々からの応援メッセージも披露されている。多くの人の関わりが公演を成立させる構図が示されるのだが、トリッキーなことに、小松自身についてはほとんど言及されていない。公演の主宰たるアソシエイト・アーティスト本人は関わりの結節点でありながら、その身体は可視化されず、行程のどの場面をとってみても小松のシグネチャーは発見されない。公演が体現するのは表象ではなくそれを成立せしめる枠組みであり、その中心は空白なのである。
コミュニティの体現としての観客参加型といえば、北村成美がその場にエネルギーの渦を作り、みずから道化となって観客を巻き込み大きな踊りの輪を生み出した例が思い出される(ダンスボックス設立20周年企画 The Party、2016)。また舞台と客席を別の空間に作り変えた例に中間アヤカ『フリーウェイ・ダンス』(2019)があるが、劇場の構図を解体してもなおそこにまつわる文脈と人々の記憶を宿した中間の身体は出来事の中心であり続けた。こうした例に対し『あわいにダンス』では中心に小松の身体はない。コモンズとしての劇場を考えるとき、何かを象徴し表象する身体の特権性にリアリティを感じられないということかもしれない。ダンスは中心にではなく関係性のあわいに生まれるのであり、その相互性、偶発性の前に作者は消滅すると見るのだろう。コミュニティの生成を振り付けるとは拡張された振付概念といえ、実際、本作は上演の形に集約した社会関係のモデル化の試みであった。ただ、この「拡張」の言説は、これもダンスであり振付であると言ってしまえば何であれ言えてしまうという相対主義と背中合わせにある。そしてコミュニティと社会の関係性を示そうというとき、それがダンスの名の下に行われる必要をどう見出すかが問われることになる。実際の上演が「日常」や寛容、承認といったコミュニティ的価値をやや図式的に示すにとどまった感があるのも、この辺りが鍵となったように思われる。空白の中心に何かを代入するのではないとしても、上演を通じてダンスを直観するモメントを引き入れることが出来れば、劇場とコミュニティと社会の関係を示す最強のモデルになるのではと思われる。
2023年2月5日、所見 ダンス批評/竹田真理
写真:岩本順平
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【お知らせ】
小松菜々子がホストする読書会を3月も引き続き開催します。
▶︎3月18日(土)、3月28日(火) 両日とも13-15時 ArtTheater dB KOBEにて
参加無料です。ぜひお越しください。