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【本のこと#01】友人との会話記録9,19

 本は自由に楽しめばいいと思う。何を読んだって、どう読んだって、それはその人の自由。本を読まないのだって自由だ。そこに優劣も良し悪しもない。その人が、それでいいのであれば。少なくとも私はそう思う。
 でも「文章が読める」力は生きていく上でやはり必要で、できないよりはできた方が確実にいい。文字が読めても意味を理解せず、音の羅列としてしか受け取らない、受け取れないとなると伝達ができない。コミュニケーションをとるのが難しい。そう思うと、それを養えるひとつの方法として読書は欠かせないものではないだろうか。

 そんな話を、島で出会った年上の友人と思いがけずした昨日。期間限定の出張カフェでランチをと思っていたところ、彼女がやってきたのでテーブルをともにしていたら2時間も話し込んでいた。驚きである。
 彼女は本が好きで、日常に本があるのが当たり前だ。私もそちら側である。小学校で仕事をしている彼女は、本を読まない、本を読めない子どもたちが増えているという実感について教えてくれた。それは私も所々で感じている。この離島においてもそれは顕著である。
 一方で、それは親である大人が読んでいないから、子どもも本に対して親しみを抱きづらいのかもしれないとも思う。
 それが良いとか悪いとか、そういうことを書き連ねたいのではない。楽しめるものがこの時代は数多くあるし、本が手に入れづらい価格になってきていることもあり、本をわざわざ選ばないという選択肢も理解できる。
 それでも、本や図書室に関わっている人間からすると、どうにか少しでも本にふれてもらいたいと思ってしまうのだ。

 本を読んだからと言って、必ずしも役には立たない。何かの意味があるかどうかもわからない。頭が良くなるかもわからない。
 なら本など読まなくてもいいではないか、となるかもしれないがそうではない。それは、読んだ人がどう吸収して、自分の糧とするかによるからだ。何をするにしてもそうだが、得たもの感じたものをどう活かすかは自分次第。
 そもそも、役に立てなければいけないわけでもないし、意味を見出す必要もない。ただ本を楽しむ。それだけでももちろんいい。何に対しても見返りや成果を求める必要などないのだ。

 どうすれば、「読み聞かせ」から「自分で読む」へスムーズに移行ができるのか。自分で読めるようになったとして、絵本から児童書、児童書の中でも文字の少ないものから多いものへ……といった段階的な本との関わり方を培っていけるのか。その間のサポートとして何ができるのか。
 そして、本を自分で読めるようになると、その後も本への親しみは残る。少なくとも本を読むことへの負担や拒否感は限りなくない状態になっているだろう。そこに至るまでが難しいのだが……

 そんなことを話してどっぷり2時間である。まだまだ話したいこともあったが、次の予定もあったのでお互い切り上げた。
  


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