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観る女、観られる女、さらに観る女 ―北原みのり『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』―

 いわゆる「有害な男らしさ」の実態はだいたい「有害な幼稚さ」である。それに対して、「有害な女らしさ」には少なくとも「有害な幼稚さ」と「有害な成熟」の二種類がある。前者の代表格は小室哲哉氏の「寵姫」だった頃の華原朋美氏だが、後者の代表格は首都圏連続不審死事件の木嶋佳苗受刑者である。その木嶋受刑者は、様々な女性たちの注意を引いた。コラムニストでフェミニストの北原みのり氏もその一人である。
 その北原みのり氏のルポルタージュ『毒婦。 木嶋佳苗100日裁判傍聴記』(講談社文庫)は、『週刊朝日』に連載されていた裁判傍聴記をまとめた本である。私がこの本を再読したのは、木嶋佳苗という稀代の女性犯罪者よりもむしろ、北原みのりという「善良な」フェミニスト女性の心理が気になるからである。

 かつて、私はYahoo知恵袋の某カテゴリーで、ある女性ユーザーと親しくなった。私は彼女が自分と同じ非婚子なしの独身女性だと思い込んでいたのだが、そんな彼女が実は子持ちの人妻であり、なおかつ某カテゴリーの常連の男性たちに粉をかけまくるのに腹を立て、絶縁した。そんな彼女の「偽善者」ぶりには、見覚えがあった。
 ズバリ、北原みのり氏は問題の彼女とかなり印象が重なる人物なのだ。私は北原氏と問題の知恵袋ユーザー某氏のような「いい子ちゃん」な同性が嫌いなのである。そして、木嶋佳苗受刑者もまた、私と同じく「いい子ちゃん」な女性像を嫌うのだろう。
 とは言え、私自身も北原氏と同じく、木嶋受刑者のような同性を理解出来ない。いわゆる「デブス」の容姿を保ったまま「弱者男性」たちを誘惑して、性的にも経済的にも搾取して葬ったのだ。しかも、自分の外見を非難されても冷静沈着を装うのに、自分が「田舎者」だと非難されると腹を立てるというのは、ある作家が非難したように「自らの怒りの論点をずらしている」と、私は思える。仮に私が木嶋佳苗だったら、まずはルッキズム的な劣等感に取り憑かれて、美容整形やダイエットに手を出すだろうにな。

 私は若い頃は、北原氏のエッセイを読んで感心したが、しかし彼女の「善良さ」に対してうさんくささを感じていた。あるエッセイには「女の人たち、殺され過ぎだよ!」と書かれていたが、私はそれに対して「殺され過ぎなのは男の人たちも同じでしょ?」と思った。北原氏は不自然なまでに、「女性」全般に対して性善説的な見方をし過ぎている。それに対して、子供の頃から女性ホモソーシャルで疎外されていた私は首を傾げる。
 多分、木嶋佳苗という稀代の女性犯罪者も、北原氏に対して「不自然さ」を感じたのだろう。木嶋受刑者のような女性は、私のような低学歴・低職歴の弱者女性とは別の方向性で、女性ホモソーシャルから排斥されるような女性である。
 私が北原氏に対して決定的に嫌悪感を抱くようになったのは、彼女がトランスジェンダー当事者を差別している「自称フェミニスト」たちに同調するようになったからである。トランスジェンダーなどの性的マイノリティに対する差別とは、障害者差別と同様に優生思想につながる。そして、木嶋受刑者の容姿に対する非難も当然、優生思想的な差別である。何しろ、美男美女とは生物学的な意味で優秀な人間の隠喩メタファーなのだ。そして、ビッグダディ一家などの貧乏大家族に対する非難や、エリート大家族石田さん一家に対する称賛もまた、優生思想が根底にあるのだ。

 木嶋佳苗という女性の一連の犯罪はいかにも「女らしい」というか「女臭い」やり口だが、そのような手口を用いる意志はむしろ「男性的」な印象がある。彼女の一連の犯罪とは仕事ビジネスであり、冷ややかな合理性を感じさせる。その辺が他の女性犯罪者たちとは一線を画す性質である。

【BTS - Butter】

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