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「サピオソーシャル」から与えられる「ケーキ」は遠い ―山本譲司『累犯障害者』―

《ホモソーシャル(英: homosocial)とは、恋愛或いは性的興味を伴わない同性間関係を意味する社会学用語。この用語は、研究者が社会における男性の支配性を説明するために使用されることが多い。イヴ・セジウィックによる「男性のホモソーシャル(同性間の結びつき)への欲望」という議論によって普及した。それよりも早い1976年に、ジーン・リップマン=ブルーメンが性的な意味ではなく、社会的な意味での、同性の仲間への選好をホモソーシャリティ(homosociality)と定義している》
(ウィキペディアより引用)
 確かにセジウィック氏は「ホモソーシャル」という造語の生みの親として、これを男性同士の関係性について定義している。しかし、言葉は生き物である。深澤真紀氏の造語「草食男子」だって、深澤氏自身の思惑とは無関係に言葉が一人歩きしている。それと同じ事は「ホモソーシャル」にも言える。すなわち、「ホモソーシャル」は「男社会」だけに限った事ではない。「女社会」にも言えるものである。
 上野千鶴子氏の著書『女ぎらい』には「非オタクで健常者の異性愛女性」の著者としての限界がある。この本は、男女の異性愛者のミソジニーを取り上げるなら、腐女子や性的マイノリティー女性のミソジニーをも取り上げるべきだった(女性のミソジニーの本質が自己嫌悪の延長としての同族嫌悪なら、当然レズビアンにもミソジニーはあり得る)。上野氏は「女性ホモソーシャル」という概念を否定するが、他ならぬ「女子校文化」こそが「女性ホモソーシャル」そのものじゃないのか? つまりは、中村うさぎ氏と酒井順子氏は「女性ホモソーシャル」側からの「男性ホモソーシャル」並びに「ヘテロソーシャル」に対する「刺客」なのである。そして、桐野夏生氏の『グロテスク』のヒロインたちは「女性ホモソーシャル」からの落伍者である。

 私が思うに、「ホモソーシャル」並びに「ヘテロソーシャル」をもじった「サピオソーシャル(sapiosocial)」もしくは「サピオソーシャリティ(sapiosociality)」という造語だってあっても良い。すなわち、人間の「知性」を基準にした人間関係のあり方である。そして、いわゆる「境界知能」並びに「知的障害者」は「サピオソーシャル」並びに「サピオソーシャリティ」からの落伍者として差別されている。

 山本譲司氏の著書『累犯障害者』(新潮文庫)は、知的障害者やその他の障害者(特に聴覚障害者)たちが「反省」する機会を認められる余地もないまま前科を積み重ねて刑務所への出入りを繰り返す様子を扱うルポルタージュである。私はこの本を初めて読んだ際は、あの「東電OL」と同様に「恋愛の代用」として売春をした知的障害者女性たちが印象的だったが、宮口幸治氏の『ケーキの切れない非行少年たち』(新潮新書)を読んだのを機に再読して、改めて真の「弱者男性」の存在を認識した。生まれついての知的障害者並びにその他障害者である彼らこそが、真の「弱者男性」である。
 そう、「モテ」「非モテ」以前の問題にある人たちである。たかが「女にモテない」ごときの理由で、世間一般の女性たちに対して逆恨みをする「自称弱者男性」たちとは比べものにならないくらいの苦しみが、彼らにはあるのだ。もちろん、それは性差を問わない。かつてココ・シャネルが「女は40歳を過ぎてから初めて面白くなる」と言ったのは「お健常者様の強者女性」ならではの残酷な傲慢さだなぁ…と思いつつ、私は山本氏の『累犯障害者』を読んだ。これは「ジェンダーギャップ指数」以前の問題である。

 宮口幸治氏の『ケーキの切れない非行少年たち』における「ケーキ」とは「利益」の隠喩メタファーではないかと、私は思う。そして、山本氏の『累犯障害者』における「前科者」の障害者たちは「ケーキ屋さん」から締め出される「招かれざる客」である。マリー・アントワネットの発言として捏造された「パンがなければお菓子を食べれば良いじゃない」もしくは西晋の恵帝司馬衷(皮肉な事に知的障害者だった可能性があった人物である)の言葉「米がなければ肉を食えば良い」の「お菓子」や「肉」を得られない人たちである。
 前漢の高祖劉邦に仕えた陳平は、村の儀式のためにお供えの肉を切り分けたが、村人たちはそんな彼の公正・適切な肉の切り分けをほめたたえた。そして、世界に必要なのは、「ケーキ」を公正に切り分けて全ての人々に分配出来る人たちである。そして、「ホモソーシャル」「サピオソーシャル」双方やその他諸々における差別など、あってはならない。

【Dexter Gordon - Cheese Cake】



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