見出し画像

息抜きとしての「ファンタジー」 ―鏡リュウジ『魔女術(WITCHCRAFT)』―

 ズバリ言う。私は物理学者の大槻義彦氏が嫌いだ。なぜなら、大槻氏のオカルト批判から石原慎太郎氏や橋下徹氏にも通じる「マッチョイズム」を感じさせるのが「生理的に無理」だからだ。石原氏や橋下氏のような露骨な女性蔑視発言などは大っぴらにはしないものの、それでも大槻氏のオカルト蔑視は間接的な「女性蔑視」に思える。なぜなら、オカルトやスピリチュアルなどといったジャンルは「女性性」と結び付けられる事が多いからであり、一部の女性たちもまた、女としてのナルシシズムを満たすためにこのジャンルを利用するからである。それに対して、男性が男としてのナルシシズムを満たすための手段の一つとしてオカルト批判があるのだ。
 大槻氏のような男性だけではない。女性が無神論や唯物論などの合理主義をアピールするのは、いかにも「名誉男性」気取りに見える。多分、こういうタイプは他人から「男勝り」呼ばわりされるたびに変な優越感を抱くんだろうね(しかし、それでもちゃっかり「女」としての役得も得たがる(笑))。

 それはさておき、人はパンのみにて生きるに非ずだ。つまり、唯物主義的な価値観やシステムだけでは、人も社会も精神的に「荒れ地」になってしまうのだ。そんな社会に対して危機感を抱く人たちの中に「魔女」と呼ばれる人たちがいる。
 ただし、この鏡リュウジ氏の『魔女術(WITCHCRAFT)』(柏書房)では「『魔女』には男女双方いる」としている。つまり、英語の「witch」は男女双方を合わせた呼び名なので、「魔女」という日本語訳は不適切という事になる。むしろ、そのまま「ウィッチ」と片仮名表記にした方が良いのではないかと思う。
 魔女術(ウィッチクラフト)とは、新異教主義(ネオペイガニズム)と言い換えても良いものだ。つまり、古代の(一神教普及以前の)多神教信仰の「二次創作」だ。大地や月などを司る女神信仰を中心としたものであり、キリスト教などの一神教に対するアンチテーゼであるのみならず、大槻義彦的な「合理主義信仰」へのアンチテーゼでもある。現代の「魔女」たちは環境問題に対して強い危機感を抱いている(だから、反核を訴える人たちもいる)。いかにもマッチョな「合理主義」や「唯物論」が地球上の荒廃を招いた事に対して異議を唱えるのが「魔女」であり、「ウィッチクラフト/新異教主義」なのだ。

 現代の「魔女」たちは奇想天外な「奇跡」は起こさない。精神的な癒しと解放(開放)だ。人は心の安らぎのために「ファンタジー」を必要とする。武器ではなく花を、心に潤いを。大槻氏のような「合理主義の押し売り」とは、それとは対照的に殺伐とした無粋な理念に過ぎない。少なくとも、そんな殿方が女性にモテる場面は想像出来ないし、したくもない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集