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そして「屑」が残った ―佐藤賢一『女信長』―

 旧ツイッター、すなわち、いわゆる「X」に、次のようなコメントがあった。
《なんとなく。女性は「自分から〈女〉を引いても〈人間〉が残る」感覚の人が多くて、男性は「自分から〈男〉を引いたら残るものがわからない」感覚の人が苦しんでるような気がする》
《男性から〈男〉を引いたら何も残らない人が多いが、「〈男〉を引ける男性」は初めから「単に〈人間〉として生きている人」であるパターンがある》
《おじさんってむしろ〈男〉しか残ってない状態ではないのか》
 自分から「男」の要素を引いても何も残らないような男性とは多分、「仕事」と「性欲」並びに「名誉欲」「支配欲」しかない人たちだろう。それはいわゆる「昭和脳」と呼ばれるような古臭い価値観である。そして、あのバイアグラをめぐる騒ぎとは、そのような男性たちの迷走を示すものだった。
 そして、それと同じ事は女性にも言えるだろう。すなわち、マスメディアの洗脳によって「恋愛体質」を植え付けられて、ホスト狂いやセックス依存症になってしまう女性とは、まさに「自分から〈女〉を引いたら残るものがわからない」「むしろ〈女〉しか残ってない状態」だろう。芸能界を引退した某二世女性タレントとはまさに、そのような女性だったのではないかと、私は思う。

 佐藤賢一氏の歴史小説『女信長』(新潮文庫)は、題名通り織田信長を女性に設定しているものである。そして、人気ゲーム『Fate』のヒロインであり「王位に就いた途端に年を取らない体質になった」設定の〈セイバー〉ことアルトリア・ペンドラゴンのアンチテーゼとして、『女信長』のヒロイン〈御長おちょう〉が主人公として存在する。公的には男性「織田信長」として振る舞う彼女は、「男の常識に囚われない」がゆえに「天下人」たり得た。しかし、彼女は「女」としての限界ゆえに迷走した。
 その表向きの凛々しさは『ウマ娘』版オルフェーヴルを連想させるが、内面的にはむしろ、バビロニアの女神イシュタル、古代エジプトのクレオパトラ7世、現代日本の作家中村うさぎ氏などを連想させる、実に生々しい女性である。そう、彼女が「女」である事自体が彼女自身の最大のアイデンティティであり、それゆえに御長は自縄自縛状態になってしまった。彼女はあまりにも自らが「女」である事にこだわり過ぎたため、自分自身に復讐される羽目になるのだ。
 前述の通り、女性は「自分から〈女〉を引いても〈人間〉が残る」感覚の人が多いと仮定するならば、御長はどのようなタイプの女性だったか? 残念ながら、彼女の「人間」としての魅力は「信長」という仮面ペルソナを被った上で成り立っていたものであり、彼女が「信長をやめた」時点で、その存在価値はそこら辺の一般人の女と大差ないものに成り下がってしまった。そんな「屑」並びに「抜け殻」を手に入れた男は、自分自身の正妻を裏切ってまでも手に入れた「女」を苦々しく思った。
 要するに、御長は決して「聖女」などではない。
 仮に「外見」「恋愛」「セックス」を「女」の三大要素だとするならば、それらを引いても、精神的な意味で何らかの取り柄が残る女性こそが「人間」だろう。しかし、「人間」としても魅力的だった「信長」こと「御長」は、残念ながら二重の意味で「情けない」。すなわち、非情かつ不甲斐ない。そんな「信長」の抜け殻としての女を手に入れた男は、夢から覚めたのだ。その女、御長は「信長」をやめる事によって、ただのつまらない「女」に成り下がったのだ。

 前述の通り、御長は決して「聖女」ではない。年を取って「外見」「恋愛」「セックス」を女の武器として使えなくなった御長は、彼女自身の「人間」としての本来の魅力がなくなってしまった。彼女の「人間」としての魅力は「信長」という役柄を演じていてこそ成り立つものであり、それを捨てた御長はただの「屑」「抜け殻」に過ぎない。結局は単なる「老害女子」に成り下がって死んだのだろう。まさに「女子と小人は養い難し」、彼女を得た男は、正妻に対して顔向け出来まい。残念!

【Madonna - Vogue】

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