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汚れなき雌虎 ―篠綾子『女人謙信』―

 一般的には男性として認識されている歴史上の人物たちの中には、「女性説」がある人たちがいる。安徳天皇が「男装の女帝」だったという説もあるらしいし、江戸幕府の9代目将軍徳川家重が「女将軍だった」という説もあるようだ。そんな「女性説」がある人物の中で、一番その説が有名なのは、多分上杉謙信だろう。
 とは言え、必ずしも「彼女」が「美貌のシスジェンダー女性」だったとは限らない。肉体的な性別がどうであれ、いわゆるトランスジェンダーだった可能性は皆無ではないだろう。余談だが、私は夏の桀王に寵愛された「男装の麗人」末喜ばっきがトランス男性だった可能性があるかもしれないと、邪推している。ちなみに私自身は、トランスジェンダー当事者に対する差別に反対する。なぜなら、そんな差別の延長線上には、障害者差別などの「優生思想」があるからなのだ。
 優生思想といえば、西晋の恵帝司馬衷が知的障害者だった可能性があるが、宮城谷昌光氏の小説のヒロインになった夏姫も知的障害者だった可能性だって、皆無ではない。彼女が異母兄と近親相姦関係だったというのは、実は一方的な性虐待被害に遭っていた可能性がある。彼女は楚の巫臣と出会うまで、男性有力者たちの間でモノ扱いされて、通貨のようにやり取りされていたのだ。

(そういえば、私が昔読んでいた雑誌に、「魏の明帝曹叡は女性だった」もしくは「項羽に寵愛された虞美人は実は男性であり、項羽の弟だった」という謎の投稿があったが、投稿者は典拠抜きでその説を書いていた。結局は何だったのだろうか?)

 話を本題に戻す。篠綾子氏の小説『女人謙信』(文芸社文庫)は、題名通りに上杉謙信女性説を元ネタにしたものである。この小説は佐藤賢一氏の『女信長』と同様に、男性の英雄を女性に設定したものだが、あちらとは違って、ヒロインが「クズ女」に成り下がらない。ある人物との恋はあくまでも純愛であり、ヒロイン〈お虎〉こと謙信は高潔な人物のまま、天命を全うした。要するに、この小説は『女信長』のアンチテーゼに他ならない。
 しかし、この本は物理的には文庫版『女信長』と同じくらいの厚みだが、ページの紙の厚さの違いゆえに、ページ数は半分近くである。しかし、読み心地・満足度は『女信長』よりも上である。まあ、あちらのヒロインがダメ女過ぎたので、その分、こちらのヒロインが「人間として」魅力的なのだ。
 佐藤氏の「信長」こと御長おちょうは、体を張って「女を武器にする」事によって、策士策に溺れる事態に陥り、最終的には単なる「クズ女」に成り下がってしまうという、実に後味が悪い小説である。それに対して、篠氏の「謙信」ことお虎はある男性と相思相愛になるが、あくまでも純愛であり、一線を越えない。お虎は決して、御長のような「高級娼婦」的な女性ではない。彼女は月の女神のような清らかさの「聖女」であり、その「聖女」イメージには嫌味さはない。
 お虎も御長と同じく、一人の女性として悩むが、御長ほどには自らが「女」である事にはこだわり過ぎない。御長が良くも悪くもクレオパトラ7世のような「業深き女」であり、あまりにも生々しいのに対して、お虎は「人間」としては御長よりよっぽど優れた人物だと、私は思う。

 御長とお虎の「女性」としての魅力は甲乙つけがたいものではあっても、それに対して「人間」としては明らかにお虎の方が優れていると、私は思う。というか、御長の「老害女子」化があまりにもひど過ぎるのだ。それに対して、お虎は最後まで「人間」として立派だった。少なくとも、私自身が「主君にしたい」と思えるのは明らかに、佐藤氏の御長ではなく、篠氏のお虎の方なのだ。御長はあまりにもクズ過ぎるし、「雌犬ビッチ」過ぎるのだ。

【David Lee Roth - Hina 】

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