恋愛至上主義の代替品としての趣味と特技 ―湯山玲子『女装する女』―
今回取り上げる湯山玲子氏の『女装する女』(新潮新書)は、2008年に出された本である。あの酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』よりちょっと後に出されたものであり、ある程度「時代を感じさせる」内容だが、それは現在の日本が当時に比べて貧しくなったからである。
この本には、様々な女性たちが様々な自己表現手段を試しているのが取り上げられている。タイトル通りの「女性の女装」、さらに「スピリチュアル」、「和風志向」、「ノスタルジー志向」、「ロハス・エコ志向」、「エクササイズ」、「大人の女願望」、「クリエイター志向」、「子供返り」、「ちゃっかり元を取る親孝行」が取り上げられているが、これらはズバリ、前世紀にあった「恋愛至上主義(厳密に言えば異性愛至上主義)」のアンチテーゼとでも言うべき傾向である。
この本に登場する女性たちは、男性目線を意識して「趣味」や「特技」を実践するのではない。あくまでも自己満足であり、仮に他者の目線を気にするにしても、それは異性(異物)である男性たちではなく、同性(同類)である他の女性たちからの評価を意識しているのだ。つまりは、女性ホモソーシャルにおける評価の問題なのだ。
この本のタイトルである『女装する女』とは、女性の「女らしさ」が「フィクション」「創作」であるのを示している。だからこそ、今どきの女性たちが「女らしさ」を演じるのには、コスプレ的な「作り物」要素があるのだ。しかも、それは決して男性たちのためなどではない。
『史記』の刺客列伝では、予譲は「士は己を知る者の為に死す」と言っているが、その後に続くのは「女は己を説ぶ者のために容づくる」である。つまりは、「女の容姿は男のためにある」という身も蓋もない物言いだが、現在の日本では、女性たちが「己のために」容姿磨きをするのが常識になっている。要するに、恋愛至上主義とは別次元のものとして、女性の「美容」は発展しているのだ。
その代表例がネイルアートだ。凝りに凝りまくったネイルアートに対して、好意的な意味合いで興味を抱く男性はめったにいない。「家庭的なイメージとはほど遠い」「料理が出来なさそう」などのマイナス評価で、ネイルアートに凝る女性を敬遠する男性は少なくない。という事はつまり、ネイルアートには「男よけ」の効果があるのだ。男ウケを狙って行うものではないという意味において、ネイルアートとは「硬派」な趣味なのだ。
酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』や本田透氏の『電波男』、さらには深澤真紀氏の『草食男子世代』などの書籍は、かつての日本社会にあった「恋愛至上主義」が古臭いものになったのを示している。つまりは、恋愛は他の同性たちに「勝つ」ための切り札とはなり得ないのを示している。「実生活が充実している人」を「リア充」と呼ぶが、恋愛はその必須条件ではない。何しろ、「男ガチャ」や「女ガチャ」でハズレを引いてしまえば、下手すりゃ「非モテ」よりもはるかに深刻に「人生が詰む」恐れがあるのだ。
この本は、基本的に「強者女性」の趣味嗜好を扱っているが、恋愛至上主義の代替品としての様々な「趣味」や「特技」ならば、いわゆる「女女格差」はありそうで案外なさそうな気がする。確かに「女」としての「格」の問題があるけど、男性から見た女性ではなく、女性ホモソーシャル内部の問題だろう。とりあえずは、教養と経済力の問題だね。
【Madonna - Vogue】
まさしく、世界最強の「女装する女」であるこのお方。仮にロック版『史記』があれば、この人自身の音楽ジャンルは「ロック」ではないけど、精神的には下手なロックミュージシャン以上に「ロック」だろうし、その立場の重要性からして「世家」と「列伝」との境界線クラスだろう。
ちなみにマイケル・ジャクソンは、本家『史記』の孔子世家に相当するポジションとして「世家」扱いされるべきだと思う。