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大言壮語のドン・キホーテの西洋文化博覧会 ―カミール・パーリア『性のペルソナ』―

 アメリカの社会学者で「異端のフェミニスト」であるカミール・パーリア氏の『性のペルソナ』(河出書房新社)は、上下巻合わせて1000ページほどの大著である。これらは有史以前から近代までの西洋文明の美学・美意識を扱うものである。この大著はたった一人の個人によって書かれたものだが、仮にこの本のアジア版を制作するなら、日本を含めたアジア諸国の複数の学者・研究者たちが必要だろう。それくらい、この『性のペルソナ』は質量共に重厚感があるのだ。それに、一言で「アジア」と言っても、漢字文化圏としての東アジアと、インドを筆頭とする南アジアとでは、色々な意味で様子が違うのだ。
 私はメインブログなどに投稿する書評のために、この本を再読した。私は齋藤孝氏の3色ボールペンチェックでこの本をコツコツと読み進めていったが、これでボールペンの替芯を何本か交換した。これほどの大著をたった一人で、パーリア氏はコツコツと書いていたのだ。まるで、テニスンのシャロットの女が黙って機を織るように。私もパーリア氏のように、このような「仕事」を成し遂げたいが、残念ながら私にはパーリア氏ほどの才はない。ただ、自らの物語を作るだけである。

 この『性のペルソナ』においては、西洋文明の「美」のルーツを古代エジプト文明に対して見いだしている。壮麗なピラミッドやその他建造物や芸術品たちが「西洋の眼」を生み出した。ナイル川の流れが無数の眼玉を地中海世界に放ったのだ。そして、この本におけるパーリア氏は、様々な比喩を巧みに用いるが、当人曰く、女性の詩人で「天才」と呼べるのは、古代ギリシャのサッフォーとアメリカのエミリー・ディキンソンだけだという。まあ、あくまでも「西洋文明では」だが。
 そう、西洋文化論においては男性の文人・芸術家たちが主な主人公たちであり、サッフォーやエミリー・ブロンテやエミリー・ディキンソンなどの女性文人たちは例外的な存在である。なぜなら、女性は基本的に「自然」の側であり、それに対して男性は「文明」並びに「文化」の側にあるからなのだ。そして、人間の男性を他の動物のオスと区別する最大の要素は「文化」である。そう、「文化」こそが人間としての男性のアイデンティティであり、それゆえに司馬遷は『史記』を残したのだ。つまりは、『性のペルソナ』の東アジア版には司馬遷についての言及が必要である。

 この『性のペルソナ』には、色々な問題児たちが取り上げられているが、その一人として、英国の詩人ジョージ・ゴードン・バイロンがいる。そのバイロンの娘エイダ・ラブレスは私と同じ誕生日だが、日本のSF作家山田正紀氏の小説『エイダ』の元ネタになったのが、このエイダ・ラブレスであり、ゾロアスター教神話である。そして、バイロンは魔王〈アリマニーズ〉が悪役として出てくる戯曲『マンフレッド』を執筆したが、山田氏の小説にはなぜか『マンフレッド』についての言及はない。
 そのバイロンの戯曲『マンフレッド』の主人公から私が連想したのはイザナギとイザナミの関係性だが、多分イザナギはイザナミを吸収したために、自ら神々を生み出すようになったのだろう。そして、『性のペルソナ』では「両性具有」が重要なテーマになっているが、それらは「アポロン」にも「ディオニュソス」にも例えられる。この「アポロン」と「ディオニュソス」の対比とは、要するに「論理性」と「情念」の対比であり、「文明的人工物」と「厳しい自然」の対比なのだが、日本だと「アマテラス」と「スサノオ」の対比で、インドだと「ヴィシュヌ」と「シヴァ」の対比だろうか?
 それはさておき、前述の通り私はこの本の東アジア版を誰かに書いてもらいたいのだが、さすがにこれは東アジア各国の学者・研究者チームをある程度の規模で結成しなければ無理かもしれない。私が思い当たる社会学者たちの名前だと、一人で『性のペルソナ』の東アジア版どころか日本史限定版すら書けないだろう。それぐらい、質量共に「重い」本なのだ。

 ある人曰く、ある種の天才は類まれな才能と引き換えにして、ある種の人格破綻者となってしまうという。この本で取り上げられている様々な文人・芸術家たちはまさにそのような人たちだが、他ならぬパーリア氏自身にも同じ事が言える。この本は大言壮語の女ドン・キホーテの大著である。私は1990年代にこの本を購入したが、当書評の執筆のために再読し、感心した。しかし、これほどまでの大著を出した人がテイラー・スウィフト氏を「ナチスのバービー人形」だのと誹謗中傷したのには、あたしゃがっかりしたね。実に残念である。

【Madonna - Into The Groove】

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