短編「胡桃と僕のありふれた日常」第四話 〜風にくるくる矢車草〜 #創作大賞2024
「胡桃と僕のありふれた日常」
第四話 〜風にくるくる矢車草
今宵、我が家は焼肉パーティーだ。
仕事のバディのご帰還で、彼女は喜びひとしお、リビングでくるくる舞っている。腹に子どもがいるんだから気をつけてくれよ、と僕の方が冷や冷やしている。
彼女の名は胡桃。笑顔のかわいいいクリニック勤務のナース、愛すべき僕のお嫁さんである。
いつでも大真面目で精一杯はりきる彼女は、それ故に天然色の面白オーラを眩しいほど放って、何をしでかしても僕に怒る隙を与えない。とにかく、そこに居るだけで面白いのだ。
二週間ほど前のことだ。
夜勤明けに帰宅すると、胡桃は朝早くから洗濯物を干していた。
「昨日お昼に味噌汁ひっくり返しちゃったの」
新しく支給されたばかりのマタニティー用の白衣に、味噌汁を豪快にぶちまけてしまったらしい。まだ腹が大きいわけでもないのに、新し物好きで気の早い胡桃は早速その白衣を着用して、周りのスタッフに自慢していた最中にひっくり返したのだという。本来白衣はクリニックでまとめてクリーニング業者に出すのだが、今回はイレギュラーというわけだ。
「ゆうべ洗濯したこの子に太陽を浴びさせるの」
胡桃の干したマタニティー白衣の白さに朝陽が眩しく反射していた。
僕は朝食を摂ったあと風呂に入ってから、のんびりと眠くなるまで読みかけのコミックスを読んだりユーチューブを視たり、うつらうつらしていた。ベランダでハンガーに吊るされた白衣がくるくるしているのが視界に入ってきて、何となく見ているうちに眠ってしまった。
休日の胡桃は、手際良く主婦の仕事をさっさと終わらせると、朝からキュンキュンドラマをサブスクで視聴していた。
五月の風は気持ちよく洗濯物を乾燥させているのだが、
「あたし的には何だか暑いわ。お腹大きくなるって暑くなることだったのね。何だか髪も鬱陶しい!」
どうやら衝動的に長い髪を切りたくなったらしい。
思い立ったら即行動の胡桃は、僕の睡眠中に別人のようにばっさり髪を切ってきて、健やかに眠っている僕の耳に指を突っ込んで、飛び起きた僕をさらに驚かせた。
「ふふん、似合う? かわいくなったわ」と、自分の髪をくしゃくしゃにしながら、
「どんなに風に吹かれてくしゃくしゃになってもかわいい髪型にしてもらったの」と、ご満悦でくるくる踊りながらベランダに出た。
そういえば風が強くなってるな。ん? くるくる……なんか引っかかる……
「あれ? 楽くん、白衣取り込んでくれたの?」
ちなみに楽とは僕の名である。
「いや、僕寝てたから」
「うそぉ! いないいないいない! どこにもいない!」
胡桃は六階のベランダから身を乗り出し、見渡せる限りの視野で真っ白な白衣を探したが、その姿はどこにもない。
危ないよ、と近寄る僕を体当たりで押しのけて、彼女は玄関を飛び出して行った。
マンションの周りから他人様の家の庭まで覗き込み、挙動不審の妊婦の如く、立ち止まってはキョロキョロを繰り返す。
「どこに行ったのぉ」と声に出して、通りすがりの人に不審がられたり、「この辺で白衣見かけませんでしたか」と通りすがりの人に訊いて不審がられたり。不審者全開で薄暗くなるまで探し続けたが、その甲斐もなく白衣は見つからなかった。
その晩はカップラーメンだった。
「どうして取り込んでおいてくれなかったのよ」
胡桃はがっくり肩を落とし、半白目の涙目で僕を睨む。
え? 僕のせい? 反論しようとして「ぶふっ」と吹いてしまった。
「……しばらくカップ麺だから! ふん」
*
明日になれば誰かが気づいて、塀やガードレールに掛けておいてくれるかもしれないと、胡桃は希望的推測を胸にその晩は眠った。その淡い期待は甘かったと、すぐに気づくことになる。
翌日から、胡桃の白衣捜索の日々が始まった。仕事の行き帰りは通り道を変え回り道をして、路地裏を覗き、他人の家を覗き、立ち止まったかと思うと、じっと他人の家の屋根を見上げ、挙動不審に拍車をかけて捜索範囲を広げていった。
近所の介護施設で白衣が干してあるのを見つけて、裏の垣根から睨むように一着一着を半白目で凝視している胡桃の姿を想像すると、恐いよりも恥ずかしいよりも、僕はやっぱり吹いてしまうのである。
ついに胡桃は最寄りの交番に飛び込み、
「私の白衣、届いてませんか、洗濯ハンガー付きの」
そう言って、お巡りさんを困らせた、いや、吹かせてしまった。
胡桃のぷりぷり度は、本気の連続カップ麺を死守させていたが、職場の同僚達には、支給されたばかりの新しい白衣を失ってしまったとは告白できずに苦しんでいたようだ。それでも元気のない様子は隠しようもなく、
「胡桃ちゃん、食欲ないの?」と、みんなから心配されていた。
*
白衣の行方不明から二週間。
今朝、胡桃はベランダに出て、恨めしそうに五月の青空を仰いでいた。ふと何かの気配を感じた胡桃の耳に微かな声が聴こえたらしい。
ねえ、ミツケテヨ
あなたのスグソバにいるの
ねえ、ミツケナサイヨ
ずっとココにいるのに
ねえ、いつまでマタセルノヨ
はやくタスケナサイヨ
隣の空き部屋のベランダとの境目から聴こえる微かな声。
まさか……まさかまさか。
下から覗こうにも腹が気になって這いつくばれない。仕方なく脚立に登り、隣のベランダを上から覗く。
居た! いた! イタ!
こんな近くにいたなんて。二週間も雨にも風にも陽射しにもじっと堪えていたなんて。ごめんね、ごめんね、今助けるから! 何か、何か長い棒。
脚立の上でキョロキョロしてる胡桃を見つけて、真っ青になったのは、夜勤明けで帰ってきたこの僕だった。
「危ない! 胡桃、何やってるの!」
妊婦の胡桃が六階のベランダで脚立に上ってる、その事実だけで、僕は下半身がさぁっとあわだった。
「んもぉ、楽くんの声でびっくりしちゃってかえって危ないわ!」
結局僕が二週間ぶりに胡桃の大切な白衣を救出したのである。引き揚げられたその子の白いボディーには、驚くことに小さな小さな草? が生えていたのである。これが二週間という時間の長さなのだ。
もう、ハナサナイデネ
「もう離さないわ」
胡桃は白衣を抱きしめたあと優しく洗い、味噌汁どころか日光風雨に二週間も晒された白衣の災難は、ようやく去ったのである。
胡桃のご機嫌はたちまち上昇し、リビングでくるくると喜びの舞を舞うのであった。
というわけで、今夜は焼き肉パーティーなのだ。
僕は、白衣が戻って泣くほど嬉しいよ。やっとカップ麺から解放される。
*
数日後、風の強い日。
今度は僕のスウェットパンツが行方不明になった。
わかっている。犯人は風と、そして、ピンチできちんと挟んでおかなかった胡桃だ。場所も特定している。隣の空き部屋のベランダだ。でも、そのまま放置されている。なぜならベランダの遠くまで飛ばされていて、すでに長い棒で届くレベルではないのだ。強風が逆に吹かないかなと、淡い期待をしつつ諦めている。
胡桃は、カーテンをからだにぐるぐる巻きつけて、その隙間から片目だけを出すと、「また買ってあげるから、ごめんね」と言った。
かわいい笑顔で誤魔化される僕は、胡桃が無事で元気でよかったと、あの下半身がさあっとあわだったベランダ脚立事件を思い出すたび思うのである。
うちのベランダに咲く、雨にも風にも負けない丈夫な矢車草。風向きに逆らわずくるくる回っても芯がぶれない矢車みたいに、子供が生まれても気負いはせずに、でもしっかりと胡桃と手を取り合って生きていきたいと思う。
第四話 おわり
第五話に続く
第五話
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