8年半かけてうつ病を克服した話 - 発症するまでの話 -
はじめまして。
これが note への初投稿になります。
先月、30歳の誕生日を迎えた折に自身の20代を振り返ってみたのですが、19歳で発症したうつ病から始まり、自律神経失調症、睡眠障害、社会不安障害... と自身のメンタル疾患ととにかく懸命に向き合って生きてきたなと思い返しました。
タイトルにもある通り、特にうつ病は克服までに8年半という時間を費やしました。
ただ、長い時間この病と向き合ってきたぶん、得られた学びも多かったのかなと思います。
その学びを、近い境遇で懸命に病と向き合っている方々に共有できればと思い note を始めることを決めました。
この記事を読んだことで、何かしら新たな知見を提供することができたのであればとても嬉しいです。
今回は、うつ病を発症する以前は自分にどのような心理的傾向があったのか、そしてなぜそのような傾向か形成されてしまったのか。
私がうつ病を発症するまでの過程を振り返りたいと思います。
うつ病の要因
うつ病を経験してみて、うつ病の発症には「環境」と「本人の気質」が大きく影響していると感じました。気質は、性格、心理的傾向と言うこともできます。
1つの目の「環境」についてですが、これは耐えがたいストレスを長期的に与えられる環境を指します。
ただ、ストレスを受け入れるキャパシティの大きさは人それぞれで、ある人にとっては心が折れるほど耐え難い環境でも、別の人は我慢できてしまうものです。
そこで2つ目の「本人の気質」です。
HSPという繊細な気質
HSP (Highly Sensitive Person) とは外部からの刺激に敏感で繊細な気質を持った人だと言われています。また、内的な世界が豊かで空想に耽ったり、物事を深く考えたりすることが好きな傾向があります。
幼い頃から競争や争いが極端に苦手。
親や先生が怒鳴り声をあげると、自分が怒られているわけではないのに全身を痺れるような恐怖が襲い、一刻も早くその場を立ち去りたくなる。
人から見られていると、緊張で普段通りのパフォーマンスを発揮できない。
過去の自分の失態を頻繁に思い出して、強烈な羞恥心を抱いてしまう。
創作物や創作活動が好きで、よく空想に耽ったり考え事をしている。
必要以上にその場の空気を読もうとし、精神が疲弊してしまう。
HSPという存在を私が知ったのはうつ病が治ってからですが、これらの私の体験全てはHSPという性質に由来していました。
拭いきれない深い劣等感
HSPという繊細な気質に加えて、過去の私は心の奥底に深い劣等感を抱えて生きていました。
私には兄と弟がいます。
兄と弟は幼い頃からラグビーをやっており、
兄も弟も、中学・高校と県の代表選手に選ばれて全国制覇したり、大学もラグビーの推薦で入学してしまうような人達でした。
しかし、私は幼いころギラン・バレー症候群という運動神経系の病気を発症してしまい、一時は首から下が完全に麻痺して動かせない状況でした。
そして、その後約10年間、治療のため定期的なリハビリを余儀なくされることになります。
体の回復は順調に進み、発症から1年後には人並みに日常生活を送れるようになっていたのですが、この病は私にいくつかの小さな後遺症を残していきました。
変形した右足の骨。硬直しやすい背中の筋肉。可動域が狭くなった肩。筋肉の硬直による手の震え。
スポーツ一色だった家族に触発されて、リハビリの一環として私もスポーツに挑戦することになります。ですが、この挑戦が劣等感の根元となってしまいました。
病気を発症してから、次第に日常生活は問題なく送ることができるようになっていたのですが、スポーツとなると話は別でした。
スポーツにおいて、後遺症はあらゆる場面で小さな違和感をもたらしました。
- 体が思ったように動かない。
当たり前ですが、自分の思うように体を動かせないということはパフォーマンスを著しく低下させてしまいます。
そして、低下したパフォーマンスは失敗体験を引き寄せます。
積み重なった失敗体験は私の自尊心を下げ続けました。
一見健常者に見えるため、周りの目には兄や弟に比べ単純に運動能力のない自信のない人のように映っていたと思います。
そして、いつしか周りから兄弟の落ちこぼれという評価を下されるようになります。
食卓では兄や弟のスポーツの話が中心。
親戚の集まりでは兄や弟の試合を親族で観戦する。
自分だけ蚊帳の外にいるような感覚を覚え、少しずつ深い劣等感が形成されれていきました。
家族と暮らしていた頃はこの劣等感をどうやったら拭えるのかわかりませんでした。
自分の存在価値に自信が持てず、心の根をしっかりと地面に降ろせていないような、地盤の緩い不安定な日々を送っていたのです。
夢か良心か
そんな私が高校三年生となり、大学受験を迎えることになります。
受験する予定だった大学は地元の大学でした。
両親にできるだけ負担を掛けたくないという思いからの選択でした。
昔からずっと、出版・テレビ・ラジオなどメディアに関わる仕事に携わることが私の夢でした。
メディア関連の仕事に携わるには、上京して東京の大学に通った方が有利になります。
でも両親に気を使い、その気持ちを押し殺し続けていました。
しかし、センター試験を受け終わった直後、強烈な迷いが自分に芽生えました。
- 本当にこのままでいいのか。
自分の夢のために両親にわがままを言うのか、両親の期待通り生きて行くのか。その狭間で私の心は何度も揺れ動きました。
そして、ついに私は決心し、両親に告げます。
「東京の大学に行きたい。進学してメディアに関する仕事に就きたい。」
上京により増える経済的負担、メディアという仕事に対する偏見、子供が離れてしまう寂しさ。最初は両親からの賛同は得られませんでした。
しかし、私は一歩も引き下がりませんでした。
初めての両親への反抗だったのかもしれません。
そんな私の姿を見兼ねて、遂に両親は折れました。
まずは地元の大学をきちんと受けること。
それでダメだったら地元で一番厳しい環境の予備校に通うことを条件に、
浪人し東京の大学を目指しても良いという許可が下りたのです。
引き金を引く
結局、地元の大学受験は失敗し、東京の大学進学を目指すための予備校生活が始まりました。
1日のほとんどの時間を勉強に費やす日々。
予備校で友達なんか作る必要ない。勉強だけしていればいいんだ。お金を出してくれている親に失礼だ。
浪人生は社会に何も還元できていないのだから、私には何の価値もない。
私は恥ずかしい人間だ。
当時の私は浪人している自分をこのように捉えていました。
そして同時に、迷いと後悔と共に日々を送っていました。
迷いとは「自分のわがままでこんなことになってしまってよかったのか」という迷いです。
表向きは浪人することの許可を与えてくれた両親でしたが、当然ながら心から応援してくれているわけではありませんでした。
繊細な私は、私に対する態度が冷たくなったこと、私の現状への苛立ちなど両親の些細な心の動きまで感じ取ってしまっていました。
私のわがままから始まったこととはいえ、とても孤独でした。
そしてその迷いを振り払うように、私は自分を追い詰めていきます。
- もっとやらないと。もっとやらないと両親に申し訳ない。
日に日に睡眠時間は短くなっていきました。
また、勉強以外の迷いや不安で脳が常に稼働している状況になっていきました。
そしてある日、予備校で勉強していると耳鳴りが一日中おさまらない日が訪れます。
後に知ることになりますが、それはうつ病と併発した自律神経失調症の症状でした。
生じる異変
予備校で学習中に耳鳴りが始まってから、次々と体に異変が生じました。
胃痛。吐き気。お腹が常に緩く血液が混じる。首、肩、背中の異常な凝り。髪の毛が抜けていく...
脳の活動が休まる時が一時もなく、日を追うごとにさらに眠りが浅くなっていきました。
そして受験生として致命的な異変が生じます。
それは集中力と注意力の低下でした。
文章の理解速度が日に日に遅くなっていったのです。
早朝から日が沈むまで毎日勉強しているにもかかわらず、脳機能が低下し学んでいる内容がほとんど頭に入ってこない状況でした。
しかし時間は過ぎて行き、人生二度目のセンター試験を迎えます。
この年の受験を失敗すると仮に両親が許してくれても、二年目の浪人は自分の体が耐えられないことをわかっていました。
今年がラストチャンスになると自分に強く言い聞かせ、不調のまま試験に臨みました。
上京
センター試験の結果は自分が満足できるものではありませんでした。
しかし、「センター試験利用制度」というセンター試験の点数だけで合否が判定される試験で、滑り止めで受験していた東京の大学に合格できるくらいには点数を取ることができていました。
その後、第一志望の大学の入試が控えていたため勉強に取り掛かろうとしたのですが、もうまともに勉強できる状態ではありませんでした。
英文を読もうとすると、強烈な吐き気を催し、トイレに駆け込まなければならないほど精神が追い込まれていました。
結局、第一志望の大学受験は失敗しましたが、幸いなことにセンター利用試験で合格していた大学に進学することを許され、上京という夢は叶いました。
上京することが決まっても、明るい気持ちにはなれませんでした。
第一志望の大学に進学できなかった無念。これから親にかける経済的な負担。
- 東京に行く資格が自分なんかにあるんだろうか。
心は罪悪感で溢れていました。
月日は過ぎ、ついに上京する日が来ました。
羽田行きの飛行機の中で、不安と罪悪感からか意識が霞んでいたことを今でも覚えています。
最初は母も私と共に上京してくれ、私の一人暮らしの準備を手伝ってくれました。
準備が一通り終わり母を見送るため羽田空港まで送り届けると、朦朧とする意識のなか、重い足取りでずっと夢見ていたはずの東京の新居に向かいました。
部屋に辿り着くともう何もする気力が起きず、すぐにベットに倒れ込みました。
(後編に続く)