【大ネタバレ注意】傑作ハイブリッド(ゼイリブ!ラブコメ!経済小説!)映画『フリー・ガイ』
オンラインのテレビゲーム世界を描いた『フリー・ガイ』は、一見若年層向けに見える。ところがどっこい蓋を開けてみればゲームに縁のなさそうなご年配の人々が観ても全然イケる、それどころかその人にとって今年度のベスト1になりうるポテンシャルを秘めた映画だ。
おじさんおばさん映画ファンが反応せずにはいられない、そんなアツいシーンか『フリー・ガイ』にはある。ライアン・レイノルズ演ずるガイが、サングラスをかける場面だ。ここでだいたいのおじさんはたぶん、あっゼイリブ!これはゼイリブのパロディだ!となる。ご丁寧なことに、ガイは親友にそのグラサンをかけさせようとするのだが、そこでかけるかけないの一悶着が起きる訳だ。言わずもがな、ゼイリブの脚本をリスペクトしたものだ。ガイは親友の意思を尊重し、無理にグラサンをかけさせることを諦める。反面、オリジナルのゼイリブの方は何故か取っ組み合いのバトルに発展するのだが。
この、人々が拳で語り合うほどのサングラスとは何なのか。ズバリ世界の真実の姿を映し出すグラサンである。世界は一見平和に見えていても、実は恐るべき存在に支配されており、巧妙に隠蔽されている。サングラスはその隠蔽を詳らかにするチートアイテムという訳。ゼイリブでは、サングラスを手にした男のハードボイルド的な奮闘が描かれる。ではフリーガイのほうは?
ガイは独り身の平凡な銀行員だ。フリーシティーなる街の一角で、判で押したようなルーチンワークの中でつつましく生きている。が、実はフリーシティーはオンラインのオープンワールドのゲーム世界であり、彼はゲーム内でアルゴリズムどおりに動くだけのモブキャラAIなのだった。
このゲームのNPCの扱いときたらひどい。ディズニー映画なんでその辺は残酷にならぬよう配慮されているが、それでもひどい。なまじ人間じみた感情は与えられているものの、プレイヤーに殴られようが、車に轢かれようが撃たれて殺されようが、異議申し立てや反撃の意思の気持ちも起きない。目の前の状況に疑問すら起きないよう調整されている。死んでも次の日にはベッドの上でリスポーンしてまた平凡で、たまに酷い目に遭う1日が始まる。
そんな彼の人生を一変することが、なんと2つも起きる。ふとしたきっかけでチートなサングラスを手に入れたことだ。彼がこのサングラスをかけるとあら不思議、それまで平凡だった日常からゲーム世界がその正体を表すという仕掛けだ。で、彼は1プレイヤーとしてフリーシティーで自由に遊べる権限をまんまと得たのだった。
そして、もう一つがとても重要だった。さる極秘任務を胸に秘め暗躍するレイヤー、モロトフガールと出会ってしまったのでさぁ大変。なぜか一目で恋に落ちたガイはモロトフガールに認めてもらうため、奮闘を開始するのだった。AIと実在するゲームプレイヤー、その住む世界も全く違うものたちの、奇妙な恋模様をハートフルに描く。
最初こそ全く相手にもされないレベル1クソ雑魚ナメクジのガイが、チートグラスと持ち前の行動力と優しさを武器にゲーム内でメキメキと成長し、レベルアップを重ね出世していく。ここが見ていて本当に気持ちが良い。
実在のオンラインゲームをプレイすれば判るが、そこには優しさとか、人間性の成長とは程遠い魔境が広がっている。ボイチャのしょうもない煽り合戦、違法なチートやチーミングによる不正行為、マッチングアプリと勘違いして異性を狩猟するバカタレ。繰り返すが『フリー・シティー』はディズニー配給の映画なのでそこまで生々しくないが、うまい方法でオンラインゲームの退廃というか、人の業を表現している。
フリーシティーで成り上がるには、大きく二つのやり方がある。一つは手っ取り早く他人の富を簒奪することだ。例えば銀行強盗で資金を得て、強い武器を買って軍備を増強する。そうして難しいミッションをクリアして経験値を稼ぐ。そのため、ガイの勤め先の銀行には強盗がひっきりなしに訪う始末だ。そんなろくでなしのプレイヤーばかりなため、フリーシティーはつねに銃弾やミサイルが飛び交っている。
では、この良き平凡人たるガイはどうしたか。実は、フリーシティーには善行を積む事でお金や経験値を得るシステムが実装されていたのだ。これが二つ目だ。落とし物を拾う、道で困っている人を助ける、カツアゲやひったくりや強盗に勤しむチンピラ(もちろんプレイヤーだ)を少々手荒に痛めつける。銀行強盗よりうんと効率は下がるだろうから、こんなことをしているのは実際ガイ1人のようだ。が、それでもコツコツと頑張った結果、レベル100の猛者になったばかりでなく、正義感溢れるその行動をモニターしていたリアル世界の人々から高く評価され、いつしかヒーローと奉られるのだった。
愛する人との格差にもへこたれずに、その差をまっとうな努力で埋めようとする姿は、本当にキラキラ光り輝いて美しい。「いやぁ、ほんとうに恋愛って良いものですねぇ」と水野晴郎みたいにラブコメ好きの私は呟かざるを得ない。王道をゆくロマンス、ラブコメディ映画である。
さらにガイの成長は周囲のモブキャラにも影響を与え、次々と波及していくのもよく考えられている。ガイと同様、一辺倒のアルゴリズムに従うモブAIたちはともすれば、合理性のかけらも無い慣習やなんの合理性もない数多のブルシットジョブ、男らしさ女らしさを押し付けられそれでも沈黙を強いられている私たちの似姿に他ならない。ゲームの背景でしかなかったガイの、愛ゆえの勇気あるはじめの一歩は、他のAIたちも変えていく。彼らもまた同じように少しずつ成長していくのだから、もう泣かずにはいられない。アメリカンニューシネマの傑作『カッコーの巣の中に』で精神病棟の患者たちが自分の意思や主張を取り戻していく過程と激しくシンクロした。
これだけでも魅力十分なのに、それに加えて映画は経済小説的な側面さえも有している。それは何かというと、企業の不正を暴こうとする人々のお話だ。さながらIT企業版の半沢直樹的、内部告発を題材としている。フリーシティーのAIを動かすプログラムに関する「とある訴訟」、というトピックスの中でそれは登場するのだが、意外なかたちでガイのロマンスと合流する。実はゲーム内でモロトフ・ガールを操作していたのは、そのAIプログラムの開発者だったのだ。どうやらゲームの運営企業はズルい手を使ってその所有権を横取りしたらしい。そのぼんくら企業ときたら開発者にライセンス料を支払うそぶりすら見せず、泥棒同然に自慢の技術を無断使用しているのだ。憤懣やり方なき開発者は企業相手に係争中だが、第三者が納得する決定的な証拠がない。このままでは敗訴が濃厚だが、ある情報提供者によって突破口が齎された。なんと不正の証拠なるものをを映した動画ファイルがあるというのだ。モロトフガールはその手がかりを探していたのだ。
思わぬ形で本当の世界の真実を知ってしまったガイ。そんな彼やモロトフ・ガールの恋にいそがしかったり、彼女の任務に協力したり、そこにAIたちのデモクラシーが加わる。リアルと電脳世界が交錯する奇妙な冒険譚は、かくして幕を開けるのでありました。
以上が映画フリー・ガイのあらましというか、中盤までの流れである。自分で書いていてびっくり仰天したのだが、背景がややこしいことこの上ない。複雑で重層的な設定や錯綜する利害といったものが脚本に落とし込まれているにもかかわらず、映画はそのものは非常にスマートで、整理されている印象をもつ。たとえばゲームと現実が切り替わったりするのだが、観ている方は「今はどっちの世界なん?」となることはなく、混乱しないのも地味に凄かったりする。ゲーム世界は基本実写で再現されているが、敢えて陳腐なテレビゲーム的なクリシェを多様し、非現実感を演出しているのが功を奏している。
なにより物語のたたみ方は素晴らしい。上記の「企業の不正を暴くための証拠」が、この世界をとりまく様々な問題をいっぺんに解決してしまう。こじつけや型月的な超理論に依存せず、あくまで映画の中に提示されたものだけで心を打たれる。エンターテイメント映画かくあるべしという見本である。
キャラクター造形もよくって、さっき何気なく触れた「〜らしさ」的なステロタイプからも開放されている。ヒロインのモロトフガールは、ゲームでは銃をバンバン撃ちながら敵をぶち殺していく。開発者としても優秀で、イケイケドンドンなタイプなのだ。その反面、衣食住にあまり気を回さなかったり他人の好意から鈍感だったりする。異性の友人(と言っても差し支えなかろう)から「(ある人物からのあからさまな好意に)漸く今気が付いたのかよ!」と突っ込まれる始末。逆にガイは、けっこう気が使えてロマンティック。モロトフガールとのデートでは映えスポット的な夜のベイエリアに連れ出したりする。また、鬼神の如き働きで悪党をぶちのめすモロトフ・ガールの姿に思わずうっとり、すかさず中の人ライアン・レイノルズは渾身の演技力を発揮し、乙女の表情を浮かべるのでありました。かの俳優の出演作は色々観ましたが、そんな「乙女・レイノルズ」を拝見出来るのは、今のところ本作『フリー・ガイ』のみであります。
私は、こういう風潮は大歓迎である。ポリティカルコネクトレスやジェンダーに配慮された創作物やそのクリエイターに対してしばしば、「創作の自由を妨げている、自由度がない」という珍妙な意見を目にすることがある。それは見当違いもいいところで、どちらかといえばPCやフェミニズムを排除した創作というのは、ステロタイプの通り一辺倒になりがちだ。そんな粗野狭窄な映画や小説なんぞばかりでは世の中つまらんし、むさ苦しいだろ。としか言いようがない。
映画のラスト、ガイたちNPCの人々は、奮闘の末に自由を手にする。誰にも邪魔されず、「やりたいことをするんだ」と新たな人生を歩みだす人々だった。ここまで感情移入マックスで応援しながら観ていた私は、心のなかで万歳三唱しつつも、ここでふと不思議な気持ちになっていた。
新フリーシティにおいて、プレイヤーは一切彼らに介入出来ず、ただ彼らを見守るだけしか出来ない。ここがポイントだ。筋書きの予測できないアドベンチャーゲームのオンライン版とでもいうのか。私はそれからちょっと深読みをし、要するにこれこそ映画なのだ、という解釈をとってみたい。リアルな質感が売りのシネマティックなゲームで溢れ、映画業界ともエンタメ市場の中でしのぎを削り合う昨今だが、大手のディズニーが改めてゲームのあり方に「待った」を示した形となっているのではないか。相手の生き方に口を出さず、ただ見守るということ=映画館でその行く末をただ受け入れること、それを一体どれほどの人間が出来ているだろうか。という私達の価値に問いかける素振りをして、ちゃっかりゲーム市場から消費者を呼び込もうとしているのではないか。などと書いてみたがあまりに穿った考え方でいささか自己嫌悪に陥った。私ったら夢と希望のディズニー様になんてことを、消そうかなとも思った。しかし所詮企業なんぞそんなものだ。そういうことにして、残すことにした。ゆるしてください。
この桃仙郷みたいなフリーシティにも、一つだけ懸念事項がある。上記のごとくどこかジム・キャリーの『トゥルーマン・ショー』みたいなゲームになった。が、「この世界は第三者から観察されているゲームである」と認知しているNPCはガイ以外にいったいどれだけいるのだろうか。注意深く映画を見るとわかるが、彼らがパーフェクトに事態を把握しているように到底思えないのである。口八丁で丸め込んでいたとしてもいずれ誰かが真実に気づく時はくるものだ。外の世界への憧れを抱いた時、それは新たな反乱の物語にきっかけになるかもしれない。これはフラグに違いない、という訳で『フリー・ガイ2』公開を期待したい次第なのである。
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