子どもの自由を考えるため、自主上映したい映画『夢みる小学校』
「子どもの自由」と「大人の期待」のバランスに悩んでいた日々でした。
この悩みを抱える大人は、とても多いのではないでしょうか。
「子どもの自由」と「大人の期待」
子ども達をただ自由にしていると、それぞれが興味の赴くままにバラバラの方に散っていく。
そうでなければ、Youtubeやゲーム、スマホなど、スクリーンの前に集合している。
そんな自由の中で、「みんなで一つのモノを作る」なんて机上の空論じゃない?
『夢みる小学校』
そんなもやもやしている状態で、オオタヴィン監督の『夢みる小学校』という映画を観ました。
映画の冒頭から、子ども達が校庭の遊具をDIYしている様子が流れます。
設計図を自ら作り、構造を検討するための模型まで作って試行錯誤しています。
でも僕は、そんな姿を観ても
大人が子ども達をそうやって仕向けているのでは?
なんて、斜に構えて観ていました。
それが、子ども達1人1人が自分たちで作ったでこぼこの椅子に座っている姿を観て、そして1人1人が思い思いのスタイルで授業を受けている姿を観て、少しずつ心のトゲトゲが丸くなっていくのを感じました。
「楽しそう」
純粋にそう思いました。
校長先生の、
「学校は楽しいことだけでいい」
この言葉が心を打ちました。
2つの「自由」
子どもに「自由にしていいよ」と言ったとき、そこには2種類の「自由」があるといいます。
1つ目は、「自由には責任が伴うよ」という自由
2つ目は、「責任は大人がとるから」という自由
1つ目の自由は、
「責任がとれない事はやらないでね」
というメッセージが込められています。
大人にとっては都合のいい自由です。
でも、子どもは「責任の取り方」なんて言われても、どうすればいいかわかりません。
そうすると、じゃあ挑戦や冒険はやめておこう、となってしまいます。
学校とは、責任の取り方がわからない自由と、納得いかないたくさんのルールに縛られた世界だと、子どもの頃から思っていました。
背中を押してくれる自由
一方で、2つ目の自由は、子どもに対して、
「いつまでも見放さないよ」
「いつでも支えるよ」
というメッセージです。
子どもの背中を後押しします。
もちろん、世の中いつでも大人が責任を取ってくれるわけではありません。
でも、どこか短い時間でも、小さな場所でも、そんな挑戦や冒険を後押ししてくれる「自由」な居場所があったら、大人でもうきうきしますよね。
(上司が「責任は私がとるから、思い切りやってみなさい」と言ってくれたら、僕はやるきマックスになります)
そして、そんな「自由」を学校全体で実践している姿が映画の中で描かれていたのです。
こんな素敵な「自由」のある居場所を作るにはどうすればいいのでしょう。
再び、冒頭のもやもやに戻ってきました。
映画を観ている間も、それについて考えていました。
イメージの共有
まず必要なのは、大人がイメージを共有することだと思いました。
堅苦しい言葉では、「理念」というのかもしれません。
ある大人が「責任は大人がとるから」と思っていても、同じ空間の別の大人が「責任は自分でとるんだよ」と思っていては、子どもは混乱しますよね。
共有したイメージを皆が常に感じていれば、それを実現する方法は人それぞれでいいと思うのです。
北極星に向かって、車で行っても、船に乗っても、ラクダを使ってもいいような。
自主上映という手段
じゃあ、共通のイメージを持つためにどうすればいいのでしょう?
そう考えたときに思い当たったのが、この映画の自主上映でした。
この映画に答えが全てあるわけではありません。
この映画が全て正しいわけでもないと思います。
きっと、負の部分で映画にできていないところもあったと思います。
それすらも共通認識とした上で、この映画をみんなで観て、思ったことを語り合う。
それがきっと、理念と呼ばれる、みんなで共有できるイメージの土台作りになるのではと思うのです。
自主上映のためのハードルは、場所や人数など色々あります。
でも、子どもに関わる多くの大人を巻き込んで、そして子ども達にも協力してもらって、ぜひ挑戦してみたいと思います。
余談ですが、へーと思ったことです。
この映画は文部科学省の選定映画となっています。
それも「家庭向け」として。
今の学校のあり方を批判しているようにも感じるこの映画を、文科省が家庭で観てほしいと言っている。
国もこの方向で学校を変えていきたいと考えているのでしょうか。