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惨めさというエネルギー

この世の最も避けるべき不幸とは何なのか。
不幸そのものとは何なのか。

僕は今、それを惨めさだと思う。

何か強力な根拠がある訳でもない。

ただ、僕自身が最も今、避けたい不幸が何で
人に味わって欲しくないモノが何で
最も戻りたくない不幸が何かを考えた時
僕は惨めさだと思った。

僕の記憶の中に惨めさはあり
僕自身は、それへの対処からアイデンティティの確立を始めた気がする。

10代の時分、僕にとって惨めさの対義語は軽快さだった。

今の僕がそういう10代に出会ったら、随分と面白い考察だと褒めるだろう。
間違ってはいるが。

僕自身は惨めさが与える思考速度や行動力の低下に着目していたのだろう。
そして、僕自身は惨めさを軽減する為に軽快さを求め、それと同時にある程度の軽薄さも手に入れつつ、問題に対処した。

結果としてはある程度上手くいったのだろう。
重要なのは、動き出す事。
止まっていては惨めさの沼に落ち込んでいく一方だった事は想像に難くない。

僕は今、多くの人に惨めさからの脱却、逃走、拒否、抵抗を勧めたい。
それは僕自身が再度、それを噛み締めたいからでもある。

行動原理

僕は今、惨めさを感じる状況から随分と這い出した。
明日、食うに困る事は無くなったし
望めば世代平均を上回る所得を得る事も出来る。
結婚をして家庭を持ち、好きな事の研究も出来るようになった。

しかし、実は、是等の事柄は惨めさからの脱出の結果ではあるものの、実質的に惨めでない状況であるとは言えない。

これは多くの場合見落とされている点である。
貧困は惨めさを誘発するが、金銭的豊かさは惨めさを消してくれるわけではない。

孤独は惨めさを誘発するが、友人の多さや恋人の存在が惨めさをかき消してくれる訳ではない。

寧ろ、お金を稼ぐ過程や、友人や恋人との関わりの中で更なる惨めさを感じる事も多い。
惨めさからの脱却は行動理由にはなるが、行動結果を保証することはない。

孤独を恐れて恋に落ちたが、それが結果、更に惨めさを加速させる場合がある事を多くの人は知っている。

それは個人単位でも社会単位でも言える。
貧富の差は社会的な惨めさを生み出してきたが、農業革命以降、実質的には僕達の飢えという惨めさを社会全体において大きく引き剥がし、世代を越える度に豊かになった。

それでも今度は貧富の差を理由に惨めになって見せるのが人間であり、僕達は惨めさに駆り立てられて走り回るゼンマイ仕掛けの絡繰のようである。

惨めさを理由にしない行動の必要性

僕達は惨めさからの脱却を理由とした行動において、強いエネルギーを持ち、実際に個人においても集団においてもある程度の成果を打ち立てるに至った。

科学技術、政治体制、哲学、宗教においても、この行動理由に基づき、大きな成果を出してきた。
これは定量的に観察する事が出来ないモノなので、個人的感覚に頼るしかないのだが、実際に、この世界から惨めさの総量は減少したのだろうか。

また僕自身の人生においては確実に惨めさの減少が起こっている事は確信出来るのだが、これが果たして惨めさからの脱却を理由とした行動によるものなのか。
それとも他の理由による行動成果なのか。

残念ながら、僕の個人的な見解では僕の人生を大きく向上させてきたものは、惨めさからの脱却であると言える。
僕は一定の程度に達すると惨めさを感じなくなるようで、言い方を変えれば、かなり簡単に[足るを知るタイプ]の人間であったせいだろう。

しかし、これでは今度は燃料切れを起こす。
向上目的行動の動機として惨めさが機能してしまう場合、その人物を強烈に前身させるものは常に惨めさという事になってしまう。

正直、これには僕自身、身に覚えがある。
つまり、最悪なのだが、成長の事由として自らを惨めさの谷に突き落とすのである。
このままじゃダメだ、と自身を洗脳し、行動に駆り立てた記憶がある。

しかし、この精神構造をメタ視点で見れば、まさに、この状態こそが惨めであるとも言える。
また、この精神構造は時に人に向上を促す時、最悪な事に励ましとして、応援として、人を惨めにさせる事に繋がる。

そして、人は自ら惨めになる事を恐れるが、他者から惨めにされる事を強烈に嫌うのである。

惨めさを行動原理として機能させてきた人間は、指導者、リーダーとして時に、このような思考体系故に、上手く組織を機能させる事が出来ない場合がある。

これは凶悪で最悪な状況を作り出す。
惨めさを向上性に繋げる価値観は大きな問題を孕んでいる。

まずは小さな惨めさからの脱却を

随分と難しい問題に直面している事を上記した。
つまり、惨めさからの脱却を行動理由にした場合、行動を起こす原動力にはなるが、惨めさからの脱却を保証しない事、社会全体では別の新たな惨めさを生成している事、個人でうまくいってしまった場合、今度は向上の為に惨めさを伝染させる恐れがある事である。

この状態に僕達は解決策を提示しなくてはならない。
単純な話なのだが、全ての惨めさを向上に結びつける事など出来なくて、一部の惨めさは精神汚染を起こす。それは抑鬱という形で出現する。
これは今度は行動力、思考力を奪う。
精神上での燃料効率を下げ、幸福度を低減させ、エネルギー総和を減少させる。

惨めさはエネルギーとして使えなくはないものの、化石燃料や原子力が抱えるよりも、ずっとロクでもない問題を抱えているのである。

ここで僕達は惨めさの取り扱いについて、多少なりとも役に立つ思考を身に付けなくてはならない。
これは個人レベルでは時に役に立ってしまう事から、対人関係を通して答えを探すべきだと考える。

[他者を惨めにしない事]を一つの思考軸に設置する視点を使っていこうと思う。
さて、この思考方向は、ある程度、既存の精神分析が使える。
まず第一に自身が惨めである状況の解除を行う。

これは至極単純なモノであり、自身が惨めである人は自らの惨めさを伝播させる。
惨めな人は他の人を惨めにさせるのである。

さて、ここで自らが惨めさのキャリアとなる事を防ぐ事を第一に考える。
自らを惨めさから解放させる訳だが、これを向上性を強いリンクさせれば、上記のループに陥っていく。

ここで、必要なのは惨めさからの向上を目指すのではなく、惨めさの解除を行う事である。

金銭的困窮や無力感の解除は、このステップでは取り扱わない。
ここで取り扱うのは健康、清潔、自己支配である。

まず、小さな問題から解決していく。
自身の中で解決できる惨めさの原因の排除を行う。
それが健康、清潔、自己支配に関するアクションである。

まずは清潔から考えたい。
人間という生き物は実は汚れるだけで惨めになる。
そして生きているだけで汚れていく。

つまり、風呂に入る、髭を剃る、散髪する、歯を磨く、服を着替える。と言った行為を[清潔]という概念を目指して行動していく。
清潔さは惨めさの予防薬になる。

健康も同じ効果がある。
特に痛みは惨めさを生み出すので、痛みを解除する活動は重要である。また見えない、聞こえない、体が上手く動かない、などの課題も惨めさを生み出すので、これらも避ける。
また、健在の肉体の状態を認識し、受容するのも、この段階に入る。これは少し難易度が高いが、僕達は自らの体を使って生きる文明に生きていくので、ここは何とか乗り越えるしかない。

最後の自己支配に関しては一段階難易度が更に上がるし、他の二項目もかなり内包する概念になるので、項を設けて、更に掘り下げていく。

自己支配

これは英語のself controlを和訳した概念である。
自分をコントロールする感覚だと言った方が現代人にはストレートに伝わるかもしれない。

自分を自分でコントロール出来ない感覚は惨めさの温床となる。
そして、これはある一定レベルでは事実として残る。
例えば、僕は注意欠陥多動性障害(ADHD)と言われる発達障害の一種である。
今では、この特徴を受容し、ある程度コントロールしているのだが、この特徴のせいで惨めな思いをした事は数え切れない。

何故か自分でもサッパリ分からないのだが、準備活動が苦手である。これは複雑な準備ではなく、例えば出かける為に起床して身支度を整える、と言った事が苦手である。

また恐ろしく不可解なモノの無くし方をする。財布の中の免許証を無くす、体に括り付けて置いたはずの鍵を無くす、といった感じで、僕にとっては何かの手品に化かされた感覚がする。

また短期記憶が極端に弱い。特に習慣行動に関する記憶能力が著しく低い。家の鍵を閉めたか、トイレを流したか、などの行為について記憶を辿って確証を得る事が出来ない。

今はこれらをコントロールすべく、様々な仕掛けを弄している。
まずは準備だが、準備自体を目的化するという段取りを組んでいる。
何かの為に身支度を整えるのではなく、身支度そのものが好きであるように自身に納得させる。

モノの紛失においては全てのモノを繋ぐ。これは二種類の方式をとっていて、一つは紐で体と結ぶ事、もう一つはデジタルによって結びつける事である。
紐で結ぶ事は比較的わかりやすいので割愛するが、デジタルで繋ぐ事を話す。
僕は常にインカムを装着していて、携帯電話が接続範囲の外側に出ればインカムから警告音がなる。
またありとあらゆる電子機器をIOT接続をしておいて、常にその所在をスマートウォッチで確認出来るようにする。
完了したモノは写真に残してデータ化する、などの方法をとっている。

このように自身の欠陥を認め、受容し、対処する事で惨めさをかなり軽減する事が出来る。

これは極端な例であるが、多かれ少なかれ、誰しもが生まれ持った優性と欠陥性を有していて、その欠陥性には受容と対処を必要とする。

僕は他にも目が悪い、集中力がない、また学歴がない、音楽的能力の欠損などの様々なハンディキャップを抱えているが、これらを受容し、対処する事で惨めさを回避している。

僕自身は該当しないが、手足の欠損、身長が低い、などの特徴、計算能力や空間認識力が低い、などの要素もこれに含まれる。

また現段階での知識量、経験値、年齢、立場なども、これと同じように受容と対処が必要となる。

これらを受容、対処する事によって惨めさのキャリアになる事を回避する事が出来る。

社会的惨めさからの脱却

今まで、個人内での惨めさへの対処ばかりを上記していたが、僕達が惨めさを強く感じるのは、これらの事柄以外の領域が大きい。

他者に認められない事、経済的困窮、無力感などである。

これらに関しては惨めさで戦わない事を推奨する。
その事由については上記の通りである。

これらは惨めさからの脱却のエネルギーではなく、向上心、改善欲求を用いて取り扱うべきであるが、これは相当な難易度を有する。

惨めさからの脱却をエネルギーとしてきた僕のような人間からすれば、これらの課題に対処すべき主要なエネルギー機構を取り除く事と等しい。

幼少期の貧困が、親の不寛容が、悔しかった思い出が、僕達の行動の原動力となる事を僕達は知りすぎている。
ただし、これは再現性も低く、また負のエネルギーを元にした行動基準であり、これでは社会性動物としての向上伝播は起こせない。

ここで一つの解決策を提示する。
それは[他者を惨めさから救う]という事である。

これは実は自身の惨めさからの脱却とは違い、自らの惨めさを燃料としない。よって、この方法を他者がトレースしようとした時にも、その追随者を惨めにする必要もない。
この方法の問題点は誰かの惨めさを燃料として借りる場合、その惨めさの主に惨めさを自覚させる力が働く事にある。

これを防ぐ為にもう一段階、この論理をブラッシュアップさせる必要がある。
[集団としての惨めさを防止する]という欲求を行動原理の燃料に使うという手法である。
そして、この手法の取り扱いには主体性という機構を身につける必要性がある。
そうでなければ、ただのイデオロギストに成り果てる。

ゲーム理論による実証

この論も、この章で最終となる。
僕達の社会では今まで、惨めさからの脱却はシンデレラストーリーとして十分に機能してきた。
貧困によって市に至らしめられた社会においては十分に利用価値のあるエネルギーだった。

しかし現在、多くの乗り物が蒸気機関で動いていないように文明の発展はエネルギー源を交換していく。
その中で多くのエネルギーを試し、失敗しながら発展していく。

僕達の社会は脱炭素社会(carbon neutral)を謳っているが、同時に脱・対惨めさ社会(Anti-misery neutral)も追求していくべきフェーズにある。

その発展において、僕はゲーム理論を用いて、現代社会において、惨めさからの脱却をエネルギーとしない社会の方が惨めではない事を立証する必要性があると考えている。

惨めさを燃料としない行動戦略が我々にとって、惨めではない社会である事を利得計算によって導き出す研究を行っていきたいと思っている。

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