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秋のあわれと分断の線

外気はわからないが、室温が30℃になったので、我慢するのをやめてエアコンを復活した。
昼間はともかく、夜はエアコンなしで眠れる程度には涼しくなることを期待している。
もうお彼岸も済んだのだし。

小ぶりなだけでなく痩せた秋刀魚を買った。
海産物ならココと近隣では評判の鮮魚スーパーに行ったのは一昨日のこと。
スーパーだが漁港直送の特設売り場が市場のようになっていて、氷の上に安置されたそれらを直接注文して買う。
客の多くが、刺身も三枚おろしもそこで捌いてもらっている。

丸々と太って食欲をそそる秋刀魚は1尾260円。
肉や他の総菜を買うことを思えば躊躇うほどの金額ではないのだが、どうしても出せない。
だって秋刀魚なのだ。

昭和人の私には、豊漁で安価だったイメージがまだ残っているのだろう。
かつてはお手頃と思っていたものが、時を経て価格が上がると、「それでも買える人」と「それなら買えない人」との間に線が引かれる。
目には見えず、お財布事情によって上下にブレる線ではあるけれど、一度生じてしまった線の存在自体はなかなか消滅しない。

あきらめて進むと、お買い得品のコーナーに痩せた秋刀魚が並んでいた。
こちらは、1尾ずつパック詰めされている。
130円。

縁起物としての初物意識はないが、秋のうちに1度は食べたいと思うのは、歳時記の中の自分が欲しがっているからだろう。

しかし。
買って帰った一昨日は、食べることができなかった。
白いパックに横たえられた体躯は、あまりに細くて痩せていた。
その姿に、私はあわれを覚えたのだ。
生きて泳いでいた頃の彼?の人生(魚生)が、けして豊かでなかったと感じて、申し訳なさが立ってしまった。
俎の上に来るのには、あなたはまだ早すぎたのではないの?

だからどうするというのか。
生きたままを買ってきたのなら、殺して食べるのが忍びなくて飼うという選択肢もあろう。
しかし、もう食べるしかないではないか。
食べるために買ったのだ。
私ったら、おかしすぎる。
それで、昨日意を決して?食べることにした。

志野の秋刀魚皿は、震災のときに割れてしまった。
それでも、腹から真っ二つにしたくなくて、あとからまがいものを買った。

なのに昨日は、迷った末にグリルを使わずシートを敷いたフライパンで焼くことにした。
収めるために二つに切った。
切ったところから旨味が流れ出てしまうのは知っている。
グリルのほうが上手く焼けることも承知である。
夫がいた頃なら絶対に許されない。

脂でギトギトになったグリルのプレートを洗うのが面倒だったから、ということにした。
それもある。
ただ、大きくて長い皿に、小さな痩せた姿を置くことになんだか耐えきれない気がした。

器と中身が作る空間は、余白がなくてもありすぎても、収まりが悪い。
夫がいなくなってからは、盛り付けに無頓着な暮らしをしている(スーパーの総菜をパックのまま食べる)のに、いまさらそんなことにこだわるのはおかしい。
おかしいけれど、昨日の私はそうなのだ。

痩せていても、ちゃんと秋刀魚の味がした。
美味しくいただいた。
梨を食べて、いちじくを食べて、秋刀魚を食べ終わると、私の食における秋は一応満了である。

10月の食品値上げは約3000品目に及ぶといわれている。
秋刀魚の値段に引かれた線は、米にも肉にも果物にも、いや食べ物だけでなくありとあらゆるものに引かれている。
「それでも買える人」と「それなら買えない人」との分断がさらに進む。

大きすぎる秋刀魚皿に痩せた姿を置くのに似て、袋の大きさに対して容量が少なくなったソーセージもあわれである。
袋を空気いっぱいに膨らませているのもかえって物悲しい(腹立たしい)。


読んでいただきありがとうございますm(__)m