その強さ
辛島宣夫はモーツァルトを愛していた。
彼は1923年 上海で生まれた。
戦時下を中国で過ごすが終戦と共に日本へ帰国した。
若い頃、念願だったモーツァルトのレコードを手に入れ、
天にも昇る気持ちで家路を急いでいた。
すると、憲兵に呼び止められた。
「貴様、それは何だ」
彼は答えた。
「外国音楽のレコードであります」
「貴様!」
憲兵は逆上し、彼を殴りつけた。
「敵性国家の音楽を聴くとは何事だ!」
憲兵は彼を更に殴った。
歯を折られ、地面に倒れたまま、血だらけの口で彼は叫んだ。
「これは敵性国家の音楽ではありません!
同盟国であるドイツ国民の神聖ローマ帝国に属する音楽であります!」
「貴様!口答えするか!」
憲兵は彼の歯がなくなるほど殴り、立てなくなった彼を引きずり回した。
彼は思った。
(馬鹿め!)
視界は真っ赤に染まっていた。
(敵国と同盟国の区別もつかぬ低能に何が解る!)
憲兵は息が上がり、彼を放置してその場を去った。
立ち上がる事ができなかった彼は、這いずってレコードを探した。
割れて聴く事ができなくなったレコードを抱き締め、気を失った。
「音楽の美しさを理解できなければ人間ではない」
当時の記憶を振り返り、独り言のように 彼はそう呟いた。
その強さ。
その美しいこと。