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アクティビストのサルトル

サルトルは哲学者で、レヴィ=ストロースにやり込められてしまった人、という扱いだろうか。
 サルトルの主著の弁証法的理性批判には序説がありデカルトのようなタイトル「方法の問題」(1960年初版、日本版1961年 平井啓之訳 人文書院)
1ページ目から挑発的である。

・哲学とはまず、<興隆期にある>階級が自己についての意識をもつ或る仕方で或る。
・あらゆる哲学は実践的であり、一見最も思弁的とみえる哲学でさえもそうである。その方法は社会的、政治的武器である。
・もしも哲学とは、同時に知の総計であり、方法であり、規制的理念であり、攻撃の武器であり、言語の共同体であるとするならば、もしこの<世界像>がむしばまれた社会にはたらきかける用具であり、また、この一人の人間、或いは幾人かの人間の集団が生んだ独自の概念が、「階級全体の教養となり、ときにはその本性となるものであるとするならば、哲学的創造の時期は史上まれであったことはきわめて明らかである。
・実存主義は知の余白に生まれた寄生的な体系であり、最初はそれに対立したが、今日では、それと一体化しようとしている。
・理論と実践の分離はその結果として、実践の原理を欠いた経験主義に変え、理論を純粋で凝結した知に変えてしまうことになった。
・マルクス主義の開かれた諸概念は閉ざされてしまった。
・マルクス主義が歴史とともに生きることをやめ、官僚的な保守主義によって、変化を同一性に還元しようと試みているからである。
・<未開人>についての社会学はもっと深い関係をもった基礎の上に確立されるものである。
・・・・しかしその上カーディナーはレヴィ=ストロースが「血族関係」の基礎構造についての著書のなかであれほどみごとに証して見せたことを忘れている。p84

このように戦闘的な哲学の物言いを貫き自ら拡声器をもってデモをしていた。また旧弊じみた大学の哲学の教授を嘲笑ったりしていたようだ。サルトルの本を読むといかに我々昭和世代が影響を被っていたかわかり驚きを禁じ得ない。しかし当時はそれは近すぎてわからなかったことかもしれない。それが遠い時代にさり、考え方も変わってしまった今だからこそ既視感と郷愁を感じているのかもしれない。古き良き時代の哲学、と。どうだろうか探究し新たな読みをすることは可能だろうか?

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