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ホイジンガとセネカの「兵士」

ホイジンガの「朝の影のなかに」という本は1935年発行の、ナチスへの、当時のヨーロッパへの批判の書でオルテガ・イ・ガセットの「大衆の叛逆」と並ぶ書。
 ホイジンガは高明な美術史家で中世(やや後期)が専門分野。
 私が大学生の頃はよく読んでいた本であるが、参考文献を読むことをあまりしなかった私には、今読むと惜しい本である。当時これに沿って参考文献を読めばよかったと今日引っ張り出して思った。
 それはセネカを読んでいて、強烈にホイジンガの次のくだりを思い出したのである

XII 生と闘争
さまざまな心理的反動が大衆をひきずり、共同体を昏迷の状態におとしいれる。共同体は、あるいは闘争を求め、あるいはこれを怖れる。とりわけて、はるか未来からきたりつつある未知なるものへの恐怖が破局的にはたらく。技術が進めば進むほど、利害関係者相互の接触がはげしくなればなるほど、それだけいっそう政治的衝突の起る危険性が高まる。最悪の事態を回避しようと、たとえどんなにもがこうと、衝突は急激に起り、結局はむなしく終る。わたしたちは、これを戦争と呼ぶ。
 戦場の兵士をたたえよ。戦争仕事につきまとう欠乏と悲惨とにかれのみいだすものは、至高の禁欲の諸価値である。憎悪は兵士の心から消えている。みずからを制御して全的献身へと心をかたく持し、みずから定めたわけのものでもない目的にひたすら忠実に、かれは与えられた仕事を遂行する。そのとき、かれの内部には、倫理的な心的機能が最高度に発揮されているのである。(原注1)
  (原注1) ここのところは、もうすこしはっきりとわたしの真意をのべる必要があるかとおもわれる。というのは、多くの人が、これを、この著述の全般的な趣旨と完全に矛盾する戦争讃美の言と誤認しているからである。だが、いくら説明を加えようが、それも、一方においては暴力の絶対否定論者、また他方における、およそ罪という観念を否認するものたちに対しては通用しないであろう。そのことは承知の上だ。――兵士は、命令に忠実に、義務を遂行する。義務遂行の行為である以上、かれはそれゆえに罪とされることはない。行動するというより、むしろ耐え忍ぶといったほうがはるかに正しいのである。しかも、行動それ自体が、かれにとって受苦である。かれは、他の人びとのために、あるいはかからに代って耐え忍ぶ。政治的目的がどんな種類のものか、それはかれの問うところではない。義務とひきうけて他人のために耐え忍ぶもの、そのものは、最高度に倫理的な機能のはたらきをみたす。こういってしまっては、いいすぎになるであろうか。

朝の影のなかに 中公文庫 堀越孝一訳pp107

ホイジンガのこの本の中でも強烈に違和感の残る一節。たとえ、原注がついても全体のトーンから逸脱している。
 さて、今日読んでいたセネカは下記のとおり

アリストテレスは言う、「怒りは必要である。それがなければ何ものも征服されないー怒りが心に充満し、魂に火を点じないかぎり。ただし、怒りは指揮官としてではなく、兵卒として使われねばならぬ」と。しかし、それは嘘である。なぜというに、もしも怒りが理性の言うことに聞き従うならば、それはもはや、強情を特色とする怒りではないからである。だが、もしも怒りが理性に抵抗し、命令されても黙ることなく、なおも激情と狂暴に引きずられるならば、怒りは心にとって無用の従者であって、いわば退却の合図を無視する兵卒のごときものである。それゆえ、もし怒りが抑制を受けることを許すならば、それは他の名前で呼ばれねばならない。それはすでに怒りであることを止めたのである。怒りは束縛されない奔放なものだと私は考えるからである。だが、もし抑制されることを許さないならば、怒りは有害なものであって、それを味方と見なしてはならない。それゆえ、怒りは怒りでないか、あるいは無益のものであるか、いずれかである。誰かが報復を行なうとき、報復そのものが目当てではなく、当然のことであるから行なうのであれば、その人を、怒る者と見なしてはならない。命令に従うことを知っている兵卒は、有用な兵卒であろう。怒りという感情は悪い指揮官であるとともに、悪い従者でもある。

セネカ 怒りについて 岩波文庫1970年版 茂手木元蔵訳pp25

命令、兵士のターム、論旨として、憎悪、怒り、セネカにキリスト教的禁欲を重ねて書いた感じですね。セネカを読んでいるとあれーあちこちに引用されている気がする、というかどこかで読んだ気がする、ということがちらほらと笑
 読み巧者の皆様はいかがでしょうか。なお太字はアストロラブがつけました。
 30年の胸のつかえが取れた感じがします笑



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