マンガ渡辺ペコ「1122(いい夫婦)」とアニー・エルノー「若い男」:ずっと年上の女性が年下男性を見る目

ドラマ化されたマンガ「1122」はごく最初期に読んだマンガでした。マンガは昔は読んでいたが20年以上途切れていた。SNSのアプリから再びその世界に入り込みやや「沼」ったが今は生還した。アプリで1日待てば次々と無料で読めたことが大きい。

アプリであちこちで読めると思うが、マガポケのサイトはこちら↓

仲良し、セックスレス、不倫公認の夫婦 「1122」#マガポケ

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 妻公認で夫「おとやん」は恋人を持つが、物語としてだんだんもつれてくる。その12話に主人公の一人その妻「いちこ」はあれこれあり女性用風俗に流れてついてしまう。そのト書き「どうしてこうなった」。彼女は35歳で、買う男性は大学生である。その大学生に事前に会った時の彼女のト書き(意識の流れ)

「若くてかわいい子の「にっこり」の威力はすごい」
「若い女の子にデレデレするおじさんたちをばかにしていたけどごめんなさい わかりました」
・・・「営業トークわかってます」「わかってるけど すげーコレとてもイイ」「1ヶ月後に予約しました」

とある。「いちこ」はwebデザイナーで個人事業主をして経済的には「オトヤン」と変わらない、もしくはこえはじめているかもしれない。
 この年上女性が年下男性を見る風景はどこかで見た。真似したというつもりもない、共通の感覚を見つけたくらいの気持ちである。
 それはノーベル賞作家アニー・エルノーの「若い男」(パリ2011, 日本2024早川書房) 。主人公はアニー・エルノーを投影した40以上の女性で大学生と交際というか囲っているというか。
 日本とは意識が異なるのは、主人公の社会層と学生の社会層は違うと明確に意識していることである。主人公はブルジョワで学生は親が労働者階級であった。かつては彼女自身労働者階級に属し、大学に行き学校の先生になった。何よりブルジョワの夫と知り合いブルジョワに属すようになった。結果、離婚したが、ブルジョワ階級にいるという意識である。
それはともかく下記の彼女の意識の流れである

私が25歳の若い男と一緒にいるのは自分と同じ歳の男のやつれた顔を、すなわち自分自身の老化した顔を、四六時中眼前にしているのが嫌だからだと。
Aの顔の前では、私の顔も同様に若かった。
男たちは遥か昔から、このことを知っていたのだ。自分にそれを禁じるための理由が、私には見当たらなかった。pp27

「Aの顔の前では、私の顔も同様に若かった。」と言うのがポイントである。
おりしも若い男性がかなり年上の女性と交際や結婚ということが認知されようとしている。フランスではマクロン大統領とか、日本では芸能人でも数組出てきた。ピアニストのイーヴォ・ポゴレリチは22歳であった1980年に、師事していた43歳の女流ピアニスト、アリザ・ケゼラーゼと結婚している。その時の女性の初期の気持ちはこのようなことが含まれているのかもしれない。
 このような時代背景の中で、『1122』やエルノーに描かれる年齢差のある関係性は、単に世代間の愛の物語としてだけでなく、ジェンダーや階層、老いと若さというテーマを複雑に絡めながら、現代の価値観に問いかける重要な作品となっている。
 と今、ここまで書いてきて、マンガを思い出して付け加えるとやはりドラマになったマンガ「シジュウカラ」(坂井恵理)も女性の中年の漫画家が若い男とその若さに自分になんて関心があるわけがないとドギマギしながら関係を深めていく。彼女が40代なのでタイトルはシジュウから、という意味をかけてある。その物語の中では、「書きたいマンガとは」、「壊れた自己の再生」、「幸せになれる男女関係」、「不倫」、「壊れる夫婦」、「壊れる自己」について複雑に進行していく。幾分理想化してあるが。あとがきに年上の男と若い女のマンガにありがちなストーリーをひっくり返して描いてみたいと考えたとある。このマンガの主人公と若い男の関係は先ほどのイーヴォ・ポゴレリチとアリザ・ケゼラーゼの関係を思い出してしまう。
 さらに、書いているうちに思い出した。関係が変わるが、マンガ「二人目がほしいけど セックスレスでも妊活できますか?」(まきこんぶ)では出産前にラブラブだった夫婦が出産後に妻が赤ちゃんと夫の顔を見比べ、

顔でっけーし きったな!! 濃いまゆ毛 毛穴 ヒゲあと
きれいな新生児
やっべえ旦那きっも!!こんなにキモかったっけ??

小さくてキレイな新生児を間近で見ていたせいかギャップがひどい!!
出産前だったら当たり前だったスキンシップ(頭撫でたシーン)がめちゃくちゃキモい!!

と赤ちゃんと夫の顔を見比べ「生理的に無理」と。これはホルモンバランスやその結果の産後うつと言われているものと関係があるかもしれないが。
 先ほどのAを見ると自分も若返っているといことと合わせて、人間の認識は普段見ているものへと自己認識が寄せられていくのかもしれない。
 ところで、このような年齢差と愛について男女が逆転した例は古くから知られている。プルタルコスの「愛をめぐる対話」である。

『英雄伝』で知られる文人プルタルコスのエッセイから,愛と女性に主題をおく四篇を集めた.少年愛と男女の愛のいずれが優れるかという,プラトン『饗宴』以来のテーマをめぐる表題篇以下,「結婚訓」,「妻を慰める手紙」,「烈女伝」.古代ギリシア人にとって愛,結婚,そして女性とは何であったのかを,この一冊に見ることができよう.

岩波文庫の案内

 ミシェル・フーコーの「性の歴史」第3巻第6章の第1節はまるまるこの本を議論してあり、プラトンの頃の同性愛がローマ時代になり異性愛に変わってきた変化が分析してある。「夫婦においては愛されることよりも愛することの方が大事」「結婚生活」をしていると過ちを犯すが、そういったことを犯さずにすむようにさせてくれるのが「愛すること」(プルタルコス「愛をめぐる対話」岩波文庫pp89, 769E) 。
 フーコーの結論ではギリシアの様式の男同士の愛では「愛する男」と「愛される男」との愛に対し、男女の愛では双方が「愛し・愛される」という「二重で均衡のとれた愛することの能動性」「愛する行為のこの相互性ゆえに、性的交渉は相互の愛情ならびに同意の形式のなかに位置を占めることができる」「内的規整」と「安定性」(p272)、と結論し、ギリシア時代の様式化された同性愛(若者愛)は衰退していったとしている。なおギリシア時代の若者愛については「性の歴史」第2巻にまとまってある。所謂プラトニックラブについての原義での説明である。
 さて、このプルタルコスの話の発端が「ほれぼれする優男バッコン青年」に「恋する男」からの求愛とバッコンの結婚の世話を頼まれた「ずっと年上の未亡人」で「金持ち」のイスメノドラが嫁候補を探しているうちに「たびたび彼と会って話しているうちに、自分の方がこの若者に特別な感情を抱き始めた」(岩波文庫版749D)
・・・というわけである。若者愛との対比に年齢がずっと上の経済的に自立した女性との結婚を対比として持ってくるプルタルコスの議論は今日の上で紹介した現代の物語と共通し興味深い。
 もし年齢が若い女性だったら?かつてのギリシアでは男性が35くらいの時に15歳くらいの妻を娶ることが普通であったようである(「性の歴史」2巻)から。そうであれば愛し・愛されることの経験の浅さから先ほどの「愛する行為のこの相互性ゆえに、性的交渉は相互の愛情ならびに同意の形式のなかに位置を占めることができる」の議論で説得力はない。
 またレヴィ=ストロースもフーコーもいうように未開社会や古代ギリシアでは女は男社会の交換品だった、という点で女性はそもそも「愛」の対象にはならず所有物としての扱いだから若者愛の余地があったのだろう。
 このように年齢差のある性愛をきっかけに、自己と他者の複雑な関係において、生活様式や、行為の美学、(愛の)真理との関連について、現代でも重要で本質的な話題をひろうことができそうである。
 マンガはネタバレと言われそうですので記述は最小限にしました。アプリで無料で読めるものもありますので興味あれば是非ご覧ください。アニー・エルノーもよろしく。


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