ドゥルーズ+ガタリについては翻訳で読んでも読み進めるのが困難であるのでアンチ・オイディプスも千のプラトーも通読できていない。
ふとドゥルーズのミルプラトーのインデックスでフーコーだけ読んでみようと思った。すると面白い記述に出会う。宇野先生の翻訳本でp587。ネットでフランス語版を探してChatGPTで以下に示す。オリジナルのフランス語版へのリンクは割愛。すると
と出てくる。逃走線が面白そう。
となると本文が気になる。本文は、原書174をChatGPTで
よくわからない笑
逃走線について探すと、ちょっと前に辿ると、このようなことが出てくる
これってフーコーの生存の美学で、自己からの離脱と似てない?
年代を辿るとフーコーの「知への意志」が1976年。DGは1980年ミルプラトーで返歌をする。DとFはどこかで仲違いをしていたはずであるがそれはおいておいて。その後、1984年あたりにFは性の歴史2巻の序文にて「自分自身からの離脱」を謳うだろう。DGには違う点として指摘されている(「「逃走線(lignes de fuite)」があり、それらはアレンジメントにおいて単なる抵抗や反撃の現象ではなく、創造や脱領土化(déterritorialisation)の先端として機能」)ので新たなテーマがなければ返歌にできない。返歌としてたかどうかはもちろんわからないし、そのつもりもないかだろうと思うが、欲望か権力かは違っても今から見ると類似の方向性を感じ取りとそれぞれのわかりにくさで本を書いたこととなる。
「自分自身からの離脱」は「2巻 快楽の活用」はネットの引用箇所から探ると
となっており、Fの自分自身からの離脱は生存の美学を目指すものであり、2巻ではまだFが確信を持てないためか次の本に書くために明示していないが手段としてパレーシアをはめるとすっきりする。そしてそれはDGの逃走線による創造や脱領土に対応する。パレーシアに対応するDGの概念があればいいがあいにく私はそれを見出していない。リゾームではざっくり過ぎるだろう。
ドゥルーズ+ガタリの本は20数年の積読であったので今ちょっと好奇心を持ってのぞけた興奮がある。
なお、私は前衛音楽を好んで聴いていたことがあるのでDGにはブーレーズ、メシアン、シュトックハウゼンなどがインデックスにあって楽しそうである。