マルクス・アウレリウスのパレーシア(率直な語り)は語られる側でもある

先日、マルクス・アウレリウスのパレーシアについてフーコーが間接的に指摘していた箇所を確認した。

 そこでマルクス・アウレリウスのパレーシアについてChatGPTに聞いてみよう。

マルクス・アウレリウスの「パレーシア」(παρρησία)は、ストア派哲学や彼の『自省録』における重要な概念の一つです。「パレーシア」は、ギリシア語で「自由な発言」や「率直さ」を意味し、特に真実を恐れずに語ることを指します。この概念は、マルクス・アウレリウスの統治や彼自身の哲学的実践においても重要な役割を果たしました。

マルクス・アウレリウスは、ストア派の価値観に基づき、自分自身に対しても他者に対しても誠実であることを重視しました。『自省録』を読むと、彼が自分の内面的な問いかけを通じて、虚偽や欺瞞を排除し、自己の本質に向き合おうとする姿勢が見て取れます。彼にとって「パレーシア」は、皇帝という地位にあっても、自分の行為や判断を率直に吟味し、誠実であろうとする実践の一部であり、また他者に対しても真実を告げる態度を促すものでした。

特に彼が皇帝としての立場にあったことを考えると、率直な意見を述べることはリスクを伴うものであったかもしれません。しかし、マルクス・アウレリウスは、真実と誠実さを何よりも尊重し、パレーシアによって他者と自分自身に対する倫理的な義務を果たそうとしました。彼の哲学における「パレーシア」は、自己の内省と他者との誠実な対話の両方において中心的な役割を果たしていると言えます。

とマルクス・アウレリウスがパレーシアをすることが強調されている。しかし、これは「自省録」の該当箇所を読むと印象は異なってくるのである。
 「自省録」にはパレーシア(その活用形)はいくつあるか?
 3ヶ所である。
 一つづつ見ていこう。
一つ目は第1章6節にある。第1章は知己から受けた忠告に感謝している。感謝しているということは守っているということでもあろう。

1-6
Παρὰ Διογνήτου τὸ ἀκενόσπουδον˙ καὶ τὸ ἀπιστητικὸν τοῖς ὑπὸ τῶν τερατευομένων καὶ γοήτων περὶ ἐπῳδῶν καὶ [περὶ] δαιμόνων ἀποπομπῆς καὶ τῶν τοιούτων λεγομένοις˙ καὶ τὸ μὴ ὀρτυγοκοπεῖν μηδὲ περὶ τὰ τοιαῦτα ἐπτοῆσθαι˙ καὶ τὸ ἀνέχεσθαι παῤῥησίας˙ καὶ τὸ οἰκειωθῆναι φιλοσοφίᾳ καὶ τὸ ἀκοῦσαι πρῶτον μὲν Βακχείου, εἶτα Τανδάσιδος καὶ Μαρκιανοῦ˙ καὶ τὸ γράψαι διαλόγους ἐν παιδί˙ καὶ τὸ σκίμποδος καὶ δορᾶς ἐπιθυμῆσαι καὶ ὅσα τοιαῦτα τῆς Ἑλληνικῆς ἀγωγῆς ἐχόμενα.

「ディオグネートスから学んだことは、見せかけの真面目さを持たないこと、迷信を信じないこと、すなわち魔術や呪文、悪霊の追い払いなどのようなことを言う者たちを信じないことである。また、ウズラ取りに夢中になったり、そのようなことに驚かされないこと、率直な意見を寛容に受け入れること、哲学に親しむこと、そして最初にバッキオス、次にタンダシスやマルキアノスから教えを受けたことである。さらに、少年時代に対話編を書いたこと、腰掛けや毛皮の外套を欲しがったこと、そしてこれらに関連する他のギリシア的な教養も学んだ。」

と、パレーシアの部分だけに着目するとマルクス・アウレリウスは皇帝であるのでパレーシアされる側も持つのである。
 つまり、言われたくないことを指摘される側であり、しかも気に入らなければ殺しても良いかもしれない圧倒的な権力を持つ側なのであるが、パレーシアされたら忍耐強く聞けと賢人から聞いたということである。

 二つ目は第3章にある。

3-4
Μὴ κατατρίψῃς τὸ ὑπολειπόμενον τοῦ βίου μέρος ἐν ταῖς περὶ ἑτέρων φαντασίαις, ὁπόταν μὴ τὴν ἀναφορὰν ἐπί τι κοινωφελὲς ποιῇ˙ τί γὰρ ἄλλου ἔργου στέρῃ .., τουτέστι φανταζόμενος τί ὁ δεῖνα πράσσει καὶ τίνος ἕνεκεν καὶ τί λέγει καὶ τί ἐνθυμεῖται καὶ τί τεχνάζεται καὶ ὅσα τοιαῦτα ποιεῖ ἀποῤῥέμβεσθαι τῆς τοῦ ἰδίου ἡγεμονικοῦ παρατηρήσεως. χρὴ μὲν οὖν καὶ τὸ εἰκῇ καὶ μάτην ἐν τῷ εἱρμῷ τῶν φαντασιῶν περιίστασθαι, πολὺ δὲ μάλιστα τὸ περίεργον καὶ κακόηθες, καὶ ἐθιστέον ἑαυτὸν μόνα φαντάζεσθαι, περὶ ὧν εἴ τις ἄφνω ἐπανέροιτο˙ τί νῦν διανοῇ; μετὰ παῤῥησίας παραχρῆμα ἂν ἀποκρίναιο ὅτι τὸ καὶ τό˙ ὡς ἐξ αὐτῶν εὐθὺς δῆλα εἶναι ὅτι πάντα ἁπλᾶ καὶ εὐμενῆ καὶ ζῴου κοινωνικοῦ καὶ ἀμελοῦντος ἡδονικῶν ἢ καθάπαξ ἀπολαυστικῶν φαντασμάτων ἢ φιλονεικίας τινὸς ἢ βασκανίας καὶ ὑποψίας ἢ ἄλλου τινός ἐφ ᾧ ἂν ἐρυθριάσειας ἐξηγούμενος, ὅτι ἐν νῷ αὐτὸ εἶχες. ὁ γάρ τοι ἀνὴρ ὁ τοιοῦτος, οὐκ ἔτι ὑπερτιθέμενος τὸ ὡς ἐν ἀρίστοις ἤδη εἶναι, ἱερεύς τίς ἐστι καὶ ὑπουργὸς θεῶν, χρώμενος καὶ τῷ ἔνδον ἱδρυμένῳ αὐτοῦ, ὃ παρέχεται τὸν ἄνθρωπον ἄχραντον ἡδονῶν, ἄτρωτον ὑπὸ παντὸς πόνου, πάσης ὕβρεως ἀνέπαφον, πάσης ἀναίσθητον πονηρίας, ἀθλητὴν ἄθλου τοῦ μεγίστου, τοῦ ὑπὸ μηδενὸς πάθους καταβληθῆναι, δικαιοσύνῃ βεβαμμένον εἰς βάθος, ἀσπαζόμενον μὲν ἐξ ὅλης τῆς ψυχῆς τὰ συμβαίνοντα καὶ ἀπονεμόμενα πάντα, μὴ πολλάκις δὲ μηδὲ χωρὶς μεγάλης καὶ κοινωφελοῦς ἀνάγκης φανταζόμενον τί ποτε ἄλλος λέγει ἢ πράσσει ἢ διανοεῖται. μόνα γὰρ τὰ ἑαυτοῦ πρὸς ἐνέργειαν † ἔχει καὶ τὰ ἑαυτῷ ἐκ τῶν ὅλων συγκλωθόμενα διηνεκῶς ἐννοεῖ κἀκεῖνα μὲν καλὰ παρέχεται, ταῦτα δὲ ἀγαθὰ εἶναι πέπεισται˙ ἡ γὰρ ἑκάστῳ νεμομένη μοῖρα συνεμφέρεταί τε καὶ συνεμφέρει. μέμνηται δὲ καὶ ὅτι συγγενὲς πᾶν τὸ λογικόν, καὶ ὅτι κήδεσθαι μὲν πάντων ἀνθρώπων κατὰ τὴν τοῦ ἀνθρώπου φύσιν ἐστί, δόξης δὲ οὐχὶ τῆς παρὰ πάντων ἀνθεκτέον, ἀλλὰ τῶν ὁμολογουμένως τῇ φύσει βιούντων μόνων. οἱ δὲ μὴ οὕτως βιοῦντες ὁποῖοί τινες οἴκοι τε καὶ ἔξω τῆς οἰκίας καὶ νύκτωρ καὶ μεθ ἡμέραν, οἷοι μεθ οἵων φύρονται, μεμνημένος διατελεῖ. οὐ τοίνυν οὐδὲ τὸν παρὰ τῶν τοιούτων ἔπαινον ἐν λόγῳ τίθεται, οἵγε οὐδὲ αὐτοὶ ἑαυτοῖς ἀρέσκονται.

「人生の残された時間を他者の空想に費やさないようにしなさい。それが公共の利益に向かっていない限り。何を無駄にするのかというと、誰かが何をしているか、なぜそうしているのか、何を言っているか、何を考えているか、どんな策略を練っているかといった空想にふけることで、自分自身の心の観察から逸れてしまうことだ。だから、無意味で無駄な想像を避けるべきだが、特に他人のことに好奇心を持ち、悪意を抱くことを避けるべきである。そして、自分自身を訓練して、ただ必要なことのみを想像しなさい。もし誰かが突然「今、何を考えているのか?」と尋ねても、あなたは率直に「これこれのことを考えている」とすぐに答えられるように。あなたが考えていることが、すべて簡潔で、善良で、社会的な存在としてのものにふさわしく、快楽や享楽的な空想、競争心や嫉妬、疑念など、説明すると顔を赤らめるようなものではないことが明らかであるべきだ。こういう人こそ、もはや最良の者たちの中にいることを気にかける必要はなく、神々の奉仕者であり、神の意志に従って生きる者である。彼は自己の内に神聖なものを宿しており、それは人間を快楽に汚されず、あらゆる苦痛に傷つけられず、侮辱を受けず、悪意を感じず、何ものにも屈することなく、最大の試練に耐える闘士としての力を与えてくれる。彼は正義に深く染まり、魂の底からすべての出来事を受け入れ、共有された運命を愛し、めったに、または大きな公共の必要がない限り、他者が何を言っているか、何をしているか、何を考えているかについて考えることはない。彼は自分の行動にしか関心を持たず、自分に関連するものが全体からどのように結びついているかを常に考え、そのすべてが良いものであると確信している。なぜなら、それぞれに与えられた運命は互いに調和し、相互に役立っているからだ。そして、すべての理性的存在が親しみを持ち、人類すべてを大切にすることが人間の本性にかなうと覚えている。しかし、すべての人々の評価を気にするのではなく、自然に従って生きている者たちの評価だけを重んじるべきだ。そして、自然に従わない者たちが、家の中で、外で、夜で、昼でどのように過ごしているのか、誰と交わっているのかを思い出している。だから、そのような者たちからの賞賛を気にかけることはない。彼ら自身も、自分自身に満足していないからだ。」

 この節に現れるパレーシアは言われる側でなく言う側である。「もし誰かが突然「今、何を考えているのか?」と尋ねても、あなたは率直に「これこれのことを考えている」とすぐに答えられる」ことはパレーシアという言葉を使う以上非常に重要な意味を込めている。これが重要であることは少し前の文章を見れば理解できる。その前は「自分自身を訓練して、ただ必要なことのみを想像」しなさいと。この事柄は自ら訓練している必要があると言うのもポイントである。すなわち自己へ配慮するために自己のために考えるということである。とChatGPTからは言えるのだが、その同じ箇所(自分自身を訓練して〜)は神谷美恵子先生の翻訳では「またそれにもましておせっかいや意地の悪いことはことごとく避けなくてはならない」と訳されているのでChatGPTの受け売りでは議論できそうにない。
 この節の内容の多くは今日でも通用する。特にパレーシアが現れるところ
「もし誰かが突然「今、何を考えているのか?」と尋ねても、あなたは率直に「これこれのことを考えている」とすぐに答えられるように。あなたが考えていることが、すべて簡潔で、善良で、社会的な存在としてのものにふさわしく、快楽や享楽的な空想、競争心や嫉妬、疑念など、説明すると顔を赤らめるようなものではないことが明らかであるべきだ。」
のように振る舞えたら良い意味で利発で要領のいい人と受け取られる。仕事の合間に「今の仕事の全般的な課題は?対策考えてる?」と聞かれた時に答えられるように考えておくようにということである。スティーブ・ジョブスがエレベーターの中であった部下にこのような声をかけて、答えられないとエレベーターがあくまでに首になってるというエピソードがあった気がする。

 さて、三つ目は前回示したとおりであるので抜粋にしよう。

6章30節 抜粋
καὶ τὸ βέβαιον καὶ ὅμοιον ἐν ταῖς φιλίαις αὐτοῦ˙ καὶ τὸ ἀνέχεσθαι ‹τῶν› ἀντιβαινόντων παῤῥησιαστικῶς ταῖς γνώμαις αὐτοῦ καὶ χαίρειν εἴ τίς ‹τι› δεικνύοι κρεῖττον˙ καὶ ὡς θεοσεβὴς χωρὶς δεισιδαιμονίας˙ ἵν οὕτως εὐσυνειδήτῳ σοι ἐπιστῇ ἡ τελευταία ὥρα ὡς ἐκείνῳ.
友人関係においても安定していて、彼の意見に対して異議を唱える者たちに寛容であり、誰かがより優れたことを示すと喜んで受け入れていた。

これもパレーシアされたら受け入れよという意味なのでわかりやすい。
 フーコーによれば権力のあるところ抵抗がある(性の歴史 1巻)そして権力は網の目のようになっている(同)。ことから考えるとプラトンやディオゲネスのように王からしたら下の身分で身分の上で従って自分が気に入れられなければ殺されても言う側として登場したパレーシアはこのように受動的に描かれる。このことによってパレーシアの広がりが出てくる。
 フーコーは講義集成「主体の解釈学」で君主の魂の教導をどのようにしていたのかが過去に問題になっていたと話題に挙げている。
他に「主体の解釈学」でマルクス・アウレリウスで目を引いたページ(半分くらいは割愛した)は
340 megalophrosune 様々な束縛や隷属から自由に自己を認知できるような状態341 elenkein 事物の真価を問う 「自省録」3-11
377  修練 禁欲がキリスト教の前提の禁欲となっていて、古代のものは全く異なること
429 パレーシアの説明
430-431 マルクス・アウレリウスと追従 君主の道徳的指導
525  「自省録」冒頭の幼年期の青年期の過去について
536-537 最高の人格とは、日々を己が終焉の日の如く暮らすこと「自省録」7-69
あたりである。同書をお持ちの方は確認されたい。

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