ローマ時代の純愛恋愛小説
ローマ時代に入り恋愛小説は男女の体と心の純潔、結婚というものは、肉体面だけでなく精神面においても理解されなければならないと、フーコーは性の歴史3巻「自己への配慮」の最終章 若者たちに書いている。
まあ、そうなんだろうけど読んだことのない本のあらすじをものすごく大まかに提示されても、またフーコー流に物語がごっちゃに提示されても読んだことない以上、また、翻訳がなく読めない以上、はあ、そうですか、と言えないと思っていた。
その箇所で引用されている小説は
カリトン「カイレアスとカリロエの恋の物語」
アキレウス・タティオス「レウキッペとクレイトフォン」
ヘリオドロス「エティオピア物語」
フーコーのこの本の参考文献に翻訳書の紹介はなかったので、年月が経った後もまさかこんな本は翻訳されていないだろうと思ってあんまり調べていなかったら、結構翻訳がでていて、あらすじもフーコーの提示よりもよくわかるようになっている。
ただし少しずつ人命が違っていたりするので発見が遅れた。
あらすじを読むと冒険物語と恋愛小説でおもしろそう。冒険譚はオデュッセイアーなどのギリシアの物語を元にしているのだろうか。
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下記リンクより↓転載
https://www.kyoto-up.or.jp/books/9784876981786.html
原文がギリシア語というのもマニアックに泣ける。キリスト教化される前のヨーロッパの状況を知るのに良さそうである。
そして共通したあらすじを考えていると以前も話題に出したが、モーツアルトのオペラ「魔笛」である。二人の純潔の誓い、試練に耐える。魔笛の試練はカトリックの戒律の「沈黙」。夜の女王はキリスト教化される前の土俗の宗教。
これらの本を読んでミシェル・フーコーの最終章の読み解きに参考にしたい。フーコーの最終章を読むと肉の告白はまだ半分書きだったのだろうと思う。キリスト教初期の文学作品について述べられていないから。キリスト教の布教時代の受難の小説や使徒小説などに受け継がれていくのだろうけどその範囲を知りたい。
アベラールとエロイーズではキリスト教修道の核心として、自己の放棄、服従、沈黙が説明されていた。そのようなテーマの文学が展開されていくのだろうか?
それはともかくローマ時代の恋愛小説ってそれほど違和感を感じさせないような気もする。宗教的なものも土俗な宗教であれば日本の神々も同じような物だろうし。
2024.8.17 付記
このローマ時代のギリシアの小説が当時の実践を示してくれるならば、フーコーの「肉の告白」で置くべき小説や文学はなんであろうか?と考え、フーコーの講義集を調べてみた。
結論から言えば講義録9巻、11巻には見つからなかった。10巻はまだ日本語訳が出ていないので私の学力では調べようがない。
わかったこと:上記小説が講義に取りあげられたのは11巻「主体の解釈学」1982年3月17日の講義の503ページから2ページほど。オデュッセイアへの付け加えの物語として、ただし結末はオデュッセイアのように我が家への帰還、生は一つの試練であるとしますが、神との和解ではなく、自己の清らかさ、純血性=処女性としています。これは「性の歴史3巻」と同じ見立てです。これがキリスト的霊性に再び見出される、としています(講義11巻pp504)。となるとそのような物語が10世紀までにあるでしょうか。下ればファウストを持ってくればいいでしょうし。いかがでしょうか。