「論語」と「自己への配慮」2

それでは、論語にギリシア哲学の自己への配慮の似たところがあるか見ていこう。

まず、
修得について、ギリシアの思索をフーコーに紹介してもらおう:
ミシェル・フーコー「性の歴史3巻」 新潮社 「自己の陶冶」より

《自己の陶冶≫について手短に特色をあげるならば、生活術生活技術 (technê tou biou) がそこでは「自分自身に気をくばる」 べしとの原則によって圧倒的につらぬかれている点であろう。
・・・人が自分自身に専念し自分自身に配慮し (heautou epimeleisthai) なければならないという観念は、実際、ギリシャ文化のなかではきわめて古い主題である。
・・・この表現は『アルキビアデス』では全然別の意味で用いられていて、この著作では、その訓練が対話の本質的な主題を構成する。すなわちソクラテスは、この若き野心家[アルキビアデス]に次のように明言するのである。統治するためには何を知る必要があるかを学ばずにおいて、国家の世話をしたいと思ったり、国家に勧告を行なったり、スパルタの王たちやペルシャの君主たちと競ったりすることは、この男としてはとても傲慢であると。つまり、この男がまずしなければならないのは、自分自身への専念であってしかも若い者である以上、ただちにそうしなければならないのである、というのは「五十歳になると、おそすぎる」のだから。しかも『ソクラテスの弁明』では、ソクラテスは自分の裁判官たちにたいしては、まさしく、自己への配慮にかんする達人として自分を紹介しているのである。神によって委託されたのでソクラテスは人々に、配慮すべきは自分の富でも自分の名誉でもなく、自己自身について、自分の魂についてであることを思い起こさせる、というわけである。

フーコーの引用ここまで。
すなわち、国家の統治や君主に助言するには自己の魂に配慮すべく「何を知る必要があるかを」学び続けなければいけない、しかも若いうちから一生。そして具体的な年齢もでてくる。50では遅い。(僕はもう遅いのだ)論語の中でも噛み合うところを考えると論語の出だしの誰でも知っているフレーズでもあながち悪くない。

学而第一   一(一)

 先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」

学而第一
四(二〇)

 先師がいわれた。――
「私は十五歳で学問に志した。三十歳で自分の精神的立脚点を定めた。四十歳で方向に迷わなくなつた。五十歳で天から授かった使命を悟った。六十歳で自然に真理をうけ容れることが出来るようになつた。そして七十歳になってはじめて、自分の意のままに行動しても決して道徳的法則にそむかなくなった。」

 ギリシア哲学の命令のコアと極めて類似していると考える:
ギリシアで自己への配慮、自分の魂を気にかけるのはギリシアの自由民たる民主的な市民として、国家の運営に関わるためためである。当時はくじ引きで役職に就いていたようである。全ての人が役職に就く備えをしなければいけないのだから。
 古代中国では,森光樹三郎によると村落共同体と国というのは、国が村落共同体を育てるものではなくて収奪の対象だったとのこと。王政であり民主制ではない。
 それでも王への進言をしなければいけない君子は常に学ばなくてはいけない。何を学ぶ。自らの血肉となるように思索する。金や名誉よりも大事なことがある。それが道を求めること。15歳から学びの節はあまりに有名だろう。
 次の論点は、情報の伝達はどのような様式であろうか?
ギリシア哲学ではアルキビアデスという若い男性で、ソクラテスに愛される(がソクラテスの禁欲による真実の恋のために逆転しアルキビアデスがソクラテスを愛するようになる)男へのコメントであるが、論語では自らの実践と、仲間へは孔子を模範とするようにという暗黙の伝達であるところが異なる。
 それでも、その内容から古いギリシアの思索は古代中国の思索とかぶってくる。
 しかし、ここで気にしておかなければいけない主題がある。すなわち、ギリシアでは,魂は不滅であるのに対し、古代中国ではその概念はなかったのである。(森光樹三郎 老荘関係の文献)
 ギリシアでは肉体から魂がリリースされ、羽のついた車で飛び回るという話があったりする。それはイデア界と結びついているらしい。古代中国は,インドから入った輪廻転生に老荘思想の空が結びつけられる。
 そのような違いは何をもたらすだろうか。ギリシアでは現世での充実を求めるならばそれは反プラトン主義となる。現世での幸せを求めるか、あの世の彼岸での幸せをもとめるか、人生では大きな分かれ道になる。一方中国には現世しかなく魂・身体という二元論的な概念があったどうか不明である。政治的なパレーシアとフーコーが描くソクラテスの哲学的なパレーシアについて議論できるのかできないのか、次回以降に持ちこそう。

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