「論語」と「自己への配慮」4 政治的なパレーシア 司馬遷
前回はパレーシアに踏み込んでしまった。古代中国で政治的なパレーシアをしてリスクを取られないようにするには孔子にはコツがあったのか?それは、
子張第十九
一〇(四八一)
子夏がいった。――
「君子は人民の信頼を得て然る後に彼等を公けのことに働かせる。信頼を得ないで彼等を働かせると、彼等は自分たちが苦しめられているように思うだろう。また、君子は君主の信任を得て然る後に君主を諌める。まだ信任されないうちに諌めると、君主は自分がそしられているように思うだろう。」
と信用されてからにしようと。月並みで誰でも知っているが先に書いた人の勝ちかもしれないし、あるいは、ここで書かれているから僕らもそれが当然と考えるのかもしれない。また、組織内で上に言いにくい時に言うときに仲間内でこのように話すときに論語を引用して言うのもいいかもしれない。
最近T自動車内で上に言えない雰囲気があるとか、そんなことも話題になった。そう考えると真実を語るというのはとても身近な問題である。
次に政治的なパレーシアを用いるきっかけについて。
学而第一
一〇(一〇)
子禽(しきん)が子貢(しこう)にたずねた。――
「孔先生は、どこの国に行かれても、必ずその国の政治向きのことに関係されますが、それは先生の方からのご希望でそうなるのでしょうか、それとも先方から持ちかけて来るのでしょうか。」
子貢が答えた。――
「先生は、温・良・恭・儉・譲の五つの徳を身につけていられるので、自然にそうなるのだと私は思う。むろん、先生ご自身にも政治に関与したいというご希望がないのではない。しかし、その動機はほかの人とは全くちがっている。先生にとって大事なのは、権力の掌握でなくて徳化の実現なのだ。だから、先生はどこの国に行つても、ほかの人達のように媚びたり諂ったりして官位を求めるようなことはなさらない。ただご自身の徳をもって君主にぶつかって行かれるのだ。それが相手の心にひびいて、自然に政治向きの相談にまで発展して行くのではないかと思われる。」
このようにソフィストはいずれその魂胆がばれ、残るはパレーシアストの孔子だということである。
フーコーの評定するパレーシアについてもう少し読んでおこう
フーコー講義 「自己と他者の統治」には
このようにフーコーの講義を読みながら論語を思い出さずにはいられなかった。
論語でのパレーシアのキーワードは「諌める」を使って拾ってみたが適切であったと考えるが、他にも適した言葉があるかもしれない。
さて、論語ではないが日本人にはお気に入りのテキストの司馬遷の史記を考える。史記には含まれていないが司馬遷が史記に取り掛かったきっかけは李陵事件である。
の李陵の禍をみていただくと漢書が引用されている:
司馬遷がそういったらしいので漢書を調べる。
するとwikiの引用の前にこの文がある:
陵敗處去塞百餘里,邊塞以聞。上欲陵死戰,召陵母及婦,使相者視之,無死喪色。後聞陵降,上怒甚,責問陳步樂,步樂自殺。群臣皆罪陵,上以問太史令司馬遷,遷盛言:
つまり司馬遷が政治的なパレーシアをしたと言うことは「盛言」と言う言葉に託されている。翻訳はGoogle GEMINIでやってみよう:
「李陵が敗れて撤退した場所は塞(砦)から百余里離れていた。辺境の守備隊からこの報告が届いた。皇帝は李陵が死戦することを期待して、李陵の母と妻を召し出し、占い師に見させたが、死や喪の兆しはなかった。その後、李陵が降伏したことを聞いて皇帝は非常に怒り、陳步樂を責めて問いただした。陳步樂は自殺した。群臣はみな李陵を責めたが、皇帝は太史令の司馬遷に意見を求めた。司馬遷は李陵を弁護して強く言った。」
今では盛って話すと言うのは意味が違って話を膨らませて話す、趣旨を強調するが厳密に正しいことを話しているわけではないニュアンスも含む。また、最近の流行語というか頻出語になっている。
盛言を他に検索したがパレーシアと呼べるものはなかったので一旦この言葉と漢書はここで終わろう。
さて長くなったので次回に。
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