
アレクサンドリアのクレメンスにおけるパレーシアとエクソモロゲーシス(興味ある人向け)その1
アレクサンドリアのクレメンンスのストロマティス(綴り織)の原文を探していたが、年末に見つけ調べていた。
まず、原文はこちらであるhttp://khazarzar.skeptik.net/pgm/PG_Migne/Clement%20of%20Alexandria_PG%2008-09/Stromata.pdf
今回のテーマはフーコーがパレーシアをどうするのか、エクソモロゲーシスとの関係を明言しておらず、論者の多くはパレーシアはエクソモロゲーシスに吸収されるとしている(出典は後日)。
パレーシアは古代ギリシアの単語で真実の語りで古代ギリシアの言論の自由の権利である。かたやエクソモロゲーシスも古代ギリシアの単語であるが翻訳されずにラテン語にのこっているとされるが、意味は告白であって、フーコーの見つけ出した「自己(主体)の解釈学」(フーコー講義録、「性の歴史4巻 肉の告白」参照)によって自己を解読し告白する行為である。
パレーシアは他人に強い意志で率直に真理を働きかけ他人の言動を身分の高い低いにかかわらず(古代は低く、時代が経つと教師側に移るようだ)コントロールする行為である、一方、エクソモロゲーシスは内容は自己に閉じているようである。
さて、エクサゴレウシスもパレーシアもどちらも共通するのは「真理を語る」ことである。それゆえ、パレーシアはキリスト教の発展に伴い長上への服従などの強まりと共にエクサモロゲーシスに吸収されるのは、ということのようである。
しかもフーコーは講義録を調べても明言していないため、そうも読めるし読めないようにも感じる。
私はフーコーはそう考えていないに一票である。そうならすぐ表明したであろうし、何よりエクソモロゲーシスのサブセットとして展開すれば見通しも良い。
フーコーはキュニコス派のパレーシアや近現代のダンディ、芸術、革命家などを例に挙げてキュニコス派の伝統が復活していることを説明する。
となると服従されてしまったわけではなくそれまで潜っていただけと考えられる。フーコーはまた、デカルトやスピノザ、宗教分野ではルターなどもパレーシアの雰囲気の残ることであるとしている(後日展開)。
そこで、ギリシア教父の文献を調べてパレーシアとエクサゴレウシスが、ベクトルの内積のように平行に重ね合わさっていくのか、直交してゼロなのか時代を調べて実証的にやればよい。今日の検索技術を持ってすればわかるだろうと。
アレクサンドリアのクレメンスはその第一弾というわけである。
フーコーは「パレーシア(παρρησία)」、「エクソモロゲーシス(ἐξομολόγησις)」のほかに「エクサゴレウシス(ἐξαγόρευσις)」も取り出しているがここではお目にかかっていない。
さて、
パレーシアは 11箇所出てくる παρρησの変形である pp 51, 60, 79, 103, 121, 137, 165, 250, 259, 260, 271
エクソモロゲーシスは 12箇所 ἐξομολの変形として 11,45,66,126,139,201, 204, 206, 237, 261, 262, 272
翻訳はChatGPTで教文館のテキストで全てではないがいくつかチェックしそれほど間違ってないことは確かめてある。
パレーシアから始めましょう。
その1
pp51
2.1.2.3 μαθήματα, ἐφ' ἃ στέλλονται τὰς ἀποδημίας τὰς διαποντίους.
ὧν μὲν γὰρ δὴ κλέπται, καὶ δὴ καὶ ταῦτα ἀποδεικτέα περιαιρεθείσης αὐτοῖς τῆς φιλαυτίας, ἃ δὲ αὐτοὶ διζησάμενοι ἑαυτοὺς ἐξευρηκέναι φρυάττονται, τούτων ὁ ἔλεγχος· κατ' ἐπακολούθημα δὲ καὶ περὶ τῆς ἐγκυκλίου καλουμένης παιδείας, εἰς ὅσα εὔχρηστος, περί τε ἀστρολο
2.1.2.4 γικῆς καὶ μαθηματικῆς καὶ μαγικῆς γοητείας τε ἐπιδραμητέον. αὐχοῦσι γὰρ δὴ καὶ ἐπὶ ταῖσδε οἱ Πανέλληνες ὡς μεγίσταις ἐπιστήμαις. ὃς
2.1.3.1 δ' ἐλέγχει μετὰ παρρησίας εἰρηνοποιεῖ. ἔφαμεν δὲ πολλάκις
ἤδη μήτε μεμελετηκέναι μήτε μὴν ἐπιτηδεύειν ἑλληνίζειν· ἱκανὸν γὰρ δὴ τοῦτο ἀποδημαγωγεῖν τῆς ἀληθείας τοὺς πολλούς, τὸ δὲ τῷ ὄντι φιλοσόφημα οὐκ εἰς τὴν γλῶσσαν, ἀλλ' εἰς τὴν γνώμην ὀνήσει τοὺς
2.1.3.2 ἐπαΐοντας. δεῖ δ', οἶμαι, τὸν ἀληθείας κηδόμενον οὐκ ἐξ ἐπιβολῆς καὶ φροντίδος τὴν φράσιν συνθεῖναι, πειρᾶσθαι δὲ ὀνομάζειν μόνον ὡς δύναται ὃ βούλεται· τοὺς γὰρ τῶν λέξεων ἐχομένους καὶ περὶ
2.1.2.3 学問とは何か、それは人々を海を越えた旅へと送り出す目的で授けられるものである。 その中で、盗まれたものであることが明らかになったものについては、彼らの自己愛を取り除いた上で証明する必要がある。また、自ら探し求めて発見したと誇るものについては、それに対する論駁を行うべきである。 これに続いて、いわゆる「一般教養」についても、どれほど役に立つものであるかを考察し、さらに天文学、数学、魔術的な迷信についても論じるべきである。 パンヘレニズムの人々は、これらを最も高尚な学問であると自負しているが、その内容を正確に論駁することが必要である。
2.1.3.1 論駁を率直に行う者は、平和をもたらす者である。 我々はすでに何度も述べたが、ギリシア語を習熟しても、それを実践することを怠っている場合、それは真理から多くの人々を遠ざける原因となる。しかし、真の哲学とは、言葉にではなく精神において利益をもたらすものであることを知る者には役立つのである。
2.1.3.2 私の考えでは、真理を気にかける者は、言葉を巧みに構成しようとするのではなく、自分の意図するところをできる限り正確に述べる努力をすべきである。 言葉に執着する者たちは、むしろ真理から遠ざかる危険がある。
パレーシアという言葉の定義をしている。
パレーシア その2 p60
2.8.36.1 Ἐνταῦθα οἱ ἀμφὶ τὸν Βασιλείδην τοῦτο ἐξηγούμενοι τὸ ῥητὸν
αὐτόν φασιν Ἄρχοντα ἐπακούσαντα τὴν φάσιν τοῦ διακονουμένου πνεύματος ἐκπλαγῆναι τῷ τε ἀκούσματι καὶ τῷ θεάματι παρ' ἐλπίδας εὐηγγελισμένον, καὶ τὴν ἔκπληξιν αὐτοῦ φόβον κληθῆναι ἀρχὴν γενόμενον σοφίας φυλοκρινητικῆς τε καὶ διακριτικῆς καὶ τελεωτικῆς καὶ ἀποκαταστατικῆς· οὐ γὰρ μόνον τὸν κόσμον, ἀλλὰ καὶ
2.8.36.2 τὴν ἐκλογὴν διακρίνας ὁ ἐπὶ πᾶσι προπέμπει. ἔοικε δὲ καὶ Οὐαλεντῖνος ἔν τινι ἐπιστολῇ τοιαῦτά τινα ἐν νῷ λαβὼν αὐταῖς γράφειν ταῖς λέξεσι· καὶ ὡσπερεὶ φόβος ἐπ' ἐκείνου τοῦ πλάσματος ὑπῆρξε τοῖς ἀγγέλοις, ὅτε μείζονα ἐφθέγξατο τῆς πλάσεως διὰ τὸν ἀοράτως ἐν αὐτῷ σπέρμα δεδωκότα τῆς ἄνωθεν οὐσίας καὶ παρρησιαζόμενον·
2.8.36.3 οὕτω καὶ ἐν ταῖς γενεαῖς τῶν κοσμικῶν ἀνθρώπων φόβοι τὰ ἔργα τῶν ἀνθρώπων τοῖς ποιοῦσιν ἐγένετο, οἷον ἀνδριάντες καὶ εἰκόνες 2.8.36.4 καὶ πάνθ' ἃ χεῖρες ἀνύουσιν εἰς ὄνομα θεοῦ· εἰς γὰρ ὄνομα Ἀνθρώπου πλασθεὶς Ἀδὰμ φόβον παρέσχεν προόντος Ἀνθρώπου, ὡς δὴ αὐτοῦ ἐν αὐτῷ καθεστῶτος, καὶ κατεπλάγησαν καὶ ταχὺ τὸ ἔργον ἠφάνισαν.
2.8.36.1
ここで、バシレイデス派の人々はこの言葉を解釈し、こう述べる。主宰天使(Ἄρχων)は奉仕する霊(διακονουμένου πνεύματος)の言葉を聞き、その聞いた内容と、期待を超えてもたらされた知らせに驚嘆した。その驚きが「恐れ」と呼ばれ、知恵の始まりとなった。これは、分別的で、識別的で、完成的で、回復的な知恵である。彼は世界だけでなく、選ばれたものたちをも識別し、それらをすべてのものへと送り出す。
2.8.36.2
また、ヴァレンティノスもある書簡の中で、このような考えを述べ、このように書いているようだ。
「かつて、あの被造物に恐れが存在し、天使たちはその者が被造物を超えた言葉を発した際に驚いた。それは、彼の中に秘かに植え付けられた上なる本質の種子のゆえであり、その者が**大胆に語る(παρρησιαζόμενον)**ことによって表明された。」
2.8.36.3
同様に、世俗の人々の世代においても、恐れが人間の行為、すなわち彫像や像、そして人の手によって作られたすべてのものに影響を及ぼした。
2.8.36.4
神の名のもとにこれらが作られたように、人間の名のもとに作られたアダムは、進むべき人間によって恐れを引き起こした。それは、まさにその人間が彼の中に存在し、彼らが驚き、すぐにその行為をやめてしまうようなものであった。
ヴァレンティノスについては調べていない。申し訳ない。バシレイデス派の見解について述べています。天使が霊の言葉を驚嘆を持って受け取り知恵の始まりとなった。被造物(人間?)が想定以上に大胆に語ったことが驚かれた。
パレーシア その3
pp79
2.20.114.2 φανῆναι κρατοῦντας. δύο γὰρ δὴ ψυχὰς ὑποτίθεται καὶ οὗτος ἐν 2.20.114.3 ἡμῖν, καθάπερ οἱ Πυθαγόρειοι, περὶ ὧν ὕστερον ἐπισκεψόμεθα. ἀλλὰ καὶ Οὐαλεντῖνος πρός τινας ἐπιστέλλων αὐταῖς λέξεσι γράφει περὶ τῶν προσαρτημάτων· εἷς δέ ἐστιν ἀγαθός, οὗ παρρησία ἡ διὰ τοῦ υἱοῦ
φανέρωσις, καὶ δι' αὐτοῦ μόνου δύναιτο ἂν ἡ καρδία καθαρὰ γενέσθαι, παντὸς πονηροῦ πνεύματος ἐξωθουμένου τῆς καρδίας.
2.20.114.4 πολλὰ γὰρ ἐνοικοῦντα αὐτῇ πνεύματα οὐκ ἐᾷ καθαρεύειν, ἕκαστον δὲ αὐτῶν τὰ ἴδια ἐκτελεῖ ἔργα πολλαχῶς ἐνυβριζόντων ἐπιθυμίαις
2.20.114.2
勝利者として現れるためである。この者もまた、我々の中に二つの魂が存在すると仮定しており、それはピタゴラス派の考えに類似している。この点については後で検討することとする。しかし、ヴァレンティノスはある人々に宛てた書簡の中で、付随物(προσαρτήματα)について次のように述べている。
2.20.114.3
「唯一善なる者が存在し、その者の**パレーシア(παρρησία)**は、子による顕現である。そして、ただ彼によってのみ心は清められ得る。心の中からすべての悪しき霊が追い出されることによって。」
2.20.114.4
心の中には多くの霊が住んでおり、それが心を清らかにすることを妨げている。各々の霊が独自の業を果たし、様々な方法で欲望を煽り立てている。
「パレーシア(παρρησία)」に関する解説
2.20.114.3の「唯一善なる者(ἕις δέ ἐστιν ἀγαθός)」に関連する箇所で、**パレーシア(παρρησία)**が「子による顕現」として述べられています。この文脈におけるパレーシアの解釈は以下の通りです:パレーシアの神学的意味
パレーシアはここで「大胆さ」や「自由な発言」以上の意味を持ちます。それは、善なる唯一の者がその子(キリスト)を通じて、自らを人々に顕現する行為を指します。つまり、パレーシアは神の啓示そのものであり、人間が神を知るための手段として機能します。
心の清めとの関係
この顕現は、心の中から「悪しき霊」を追い出す力を持つとされています。ここでのパレーシアは、ただの宣言ではなく、浄化のプロセスに直接関わるものと描写されています。
倫理的実践
心に住む多くの霊が欲望を煽り、清らかさを妨げるという描写に対して、パレーシアによる顕現が人間の内的な改革を可能にするとしています。これは倫理的・霊的実践における重要な要素を提示しています。
この箇所では、パレーシアが神の顕現としての役割を果たし、人間の心を清め、倫理的に高めるための中心的な概念として強調されています。
3つ目はChatGPTがいうことを受け取っておきましょう「つまり、パレーシアは神の啓示そのものであり、人間が神を知るための手段として機能します。」
また、悪魔は他に存在しているのではなく、自分の心の中にいて、それを解読していく萌芽がありそうである。これはこれで大テーマなのでここでは取り上げない。
今回は3つのパレーシアを見た。一つ目は
「2.1.3.1
論駁を率直に行う者は、平和をもたらす者である。
」
「2.8.36.2彼の中に秘かに植え付けられた上なる本質の種子のゆえであり、その者が大胆に語ることによって表明」
「2.20.114.3パレーシアは神の啓示そのもの」
徐々に元のパレーシアという言論の自由から神の言葉を語ることに推移しているようです。
長くなりましたので今回はここまでにしましょう。
参考 新約聖書におけるパレーシア
ギリシア語のパレーシアはラテン語にどう翻訳されたか?
BGM バッハ マタイ受難曲 ガーディナー2017年
初出 2025.1.18