宮沢賢治の宇宙(95) 賢治の臨死体験が『銀河鉄道の夜』を生んだ?
心理学者、河合隼雄の『宗教と科学の接点』
先日、河合隼雄による『宗教と科学の接点』(岩波現代文庫、岩波書店、2021年)を手に入れた。この本は1986年に出たものだが、岩波現代文庫で復刊されたものだ(図1)。
河合隼雄(1928-2007)は心理学者で分析心理学(ユング心理学)を専門とした人だ。非常に著名な人で、まったく分野は違うものの、学生時代から河合の名前だけは知っていた。谷川俊太郎との共著『魂にメスはいらない』(朝日出版社、1977年)は昔、買って読んで記憶がある。今回、『宗教と科学の接点』を読んでみる気になったのは、他でもない、宮沢賢治のことが頭に浮かんだからだ。賢治は宗教と科学のはざまで悩んだ人だった。
『宗教と科学の接点』 第三章 「死について」
『宗教と科学の接点』の目次を見て驚いた。第三章は「死について」がテーマだが、そこに『銀河鉄道の夜』が取り上げられているではないか!(図2)
賢治は臨死体験して『銀河鉄道の夜』を書いたのか?
そこで紹介されている話は、驚くべきものだった。
賢治は臨死体験して『銀河鉄道の夜』を書いた
こういう意見である。
しかし、読んで納得した。
河合は米国の精神科医レイモンド・ムーディ(1944- )が研究した臨死体験を紹介している(『Life After Life』、邦訳『かいまみた死後の世界』中山善幸 訳、評論社、1977年)。河合はそこで紹介されている臨死体験の様子を(『宗教と科学の接点』の76-77頁)、賢治の『銀河鉄道の夜』の内容と比較している。
『銀河鉄道の夜』に見られる臨死体験
では、その比較を見てみよう(図3)。
なるほど、 ムーディによる臨死体験の様子(赤字の部分)と『銀河鉄道の夜』の内容(青字の部分)はよく似ている。
ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云う声がした
どこか遠くの遠くのもやの中から、セロのようなごうごうした声
考えてみれば、 夢の中の出来事のようでもある。
眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いた
青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
これまた、日常見ることがない景色ばかりだ。童話は創作なので、こういう表現もありではある。しかし、海のない町で過ごしていた賢治が億万の蛍烏賊の火をどうやって思い浮かべたのだろうか。夏、南昌山で乱舞する蛍と関係があるのかと一時期思ったが、どうもそれは関係なさそうだ。それから、第三次稿に出てくる「セロのような声」も「耳障りな音」と解釈できるとしている。ブルカニロ博士は登場しなくてもよいのだ。
もう少し見てみよう(図4)。
やはり、カムパネルラは妹のトシだったのだろうか。
図4の最後に示した話、妹のトシの幽霊(?)に会うのは『銀河鉄道の夜』にある文章ではないが、関連性が深いので載せておいた。
賢治は臨死体験をする術を身につけていた?
賢治は幻夢を見る傾向が多かったことが知られている(『不思議の国の宮沢賢治』福島章、日本教文社、1996年)。特に体調を崩したときに、その傾向が現れたようだ。大正三年(1914年)、賢治が盛岡中学校を卒業したときのことだ(十八歳)。この頃、賢治は肥厚性鼻炎を患い、盛岡の岩手病院に入院した。大正三年四月に詠まれた「病院の歌」の中に、不思議な短歌が二首ある。
短歌番号159
なつかしき地球はいづこいまははやふせど仰げどありかもわかず
短歌番号159
そらに居て緑のほのほかなしむと地球の人のしるやしらずや
(『【新】校本 宮澤賢治全集』第一巻、筑摩書房、1996年24頁)
賢治は地球の外に居て、天の川の中に浮かんで地球を眺めているような短歌だ。臨死体験で見た景色とすればよいのだろうか。
もうひとつ、不思議に思っていたことがある。それは、賢治が臨終を迎えたときの話だ(昭和8年9月21日)。
賢治が遺言を父に伝えた後のことだ。
それからすこし水を呑み。からだ中をオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときには、息を引きとっていた。 (『兄のトランク』宮沢清六、ちくま文庫、1991年、266頁)
こんな死に方をできる人がいるのだろうか。まるで、賢治は死に方を知っていたかのようだ。今回、河合隼雄による『宗教と科学の接点』を読んで、深く考えさせられた。
賢治は臨死体験をする術を身につけていたのだろうか。
妹トシに会うために。