井筒俊彦によるスーフィーのナフス論:聖典クルアーン「太陽章」をめぐって(第2回)
神の自己顕現の場としてのナフス
井筒は、『イスラーム哲学の原像』(岩波新書1980年)の中で、「ナフス」について一般向けではあるがかなり詳細な検討を行なっている。彼によれば、イスラームの思想世界において霊魂論は2つに大別されるという。一つは、哲学的霊魂論、あるいはスコラ哲学的霊魂論とも称すべきもの。いま一つが、スーフィズムの霊魂論に当たるものである。井筒は、ナフスに「魂」の訳語を当てていて、そのこともまた大いに検討の余地があるのだが、そのことはここでは深入りせず、「ナフス」についての彼の整理を確認しておきたい。
「哲学的霊魂論」と「スーフィズムの霊魂論」。まず、押さえておくべきは、「魂」の位置づけである。前者において魂は、「人間の自我の座、つまりエゴの座」であるとする。「人間の実在を「われ」として自覚させるもの」それが、ナフスだということになる。これに対して、魂は、「エゴの座ではなく、神の座」であるとするのが後者、すなわちスーフィズムの霊魂論における魂の位置づけである。つまり、「人間の実在を神の自己顕現の場、神が自己を現わす場所として自覚させるもの」それが、ナフスなのである。ナフスという場を人間が占めるのか、アッラーが占めるのか、哲学的にナフスを見れば、それをいくら掘り下げてみても、人間しか出てこない。掘れども、掘れども人間だ。これに対して、スーフィズムでは、ナフス自体が神の自己顕現の場なのだから、ナフスの中に神を見出すことができるはずだ。そうであるならば、そこに修行の意味が現れる。井筒は言う。
「スーフィズムの修業とは、要するに自我意識を基礎とする外的認識器官の働きを止めて、それの支配を脱却して、内的認識器官をできるだけ純粋な形で働かせ、それによって次第に意識の深みにひそむ神的「われ」の自覚に到達するための意識変成の道であります」(『イスラーム哲学の原像』54頁以下)
そして、「意識のこのような変貌がどうして可能か、また実際にどういう形で行われるかを理解するためには、意識そのものがスーフィズムにとってどんなふうに構成されているかをまず知っておかなければなりません」ということで、スーフィズムにおける人間の意識構造の説明を行なっていく。
それによれば、スーフィズムにおいては人間の意識を5段階的な構造とする。立体的なものとみて、いちばん上から最下底まで5つの層を認めるという。「ただし、スーフィー自身はこの意識の5つの層、5つの段階、断層的な領域を5つの別々に独立して存在する魂であるかのごとくに語る。」「つまり、言語的表現としては、5つの違った魂があることになる」とする。
意識の五層
「言語的表現として」5つの違った魂。その段階的、あるいは、断層的な5つの領域とは、下図の通りである。
井筒は、ナフス・アンマーラをいちばん上とし、次いでナフス・ラウワーマ、ナフス・ムトマインナ、そしてここからが本当の意識の深層が始まるというルーフ、それに最下層のシッルという5段階を掲げる。
①アン・ナフス・ル・アンマーラ:アンマーラは、「強制的な命令をやたらに下す」という意味とし、「人間にああしろこうしろと命令して、だいたいにおいて人間を悪に引きずり込む魂を意味する」としている。「われわれの普通の言葉で言うと、意識の感覚的知覚的領域に当たりますので、つまり深層心理学から言いますと意識の深層からいちばん遠い、すなわちわれわれの心が外界と直接接触する表面、意識の表層のこと」と言い換える。さらにスーフィズムにおいてはとして、この「感覚的領域をそのような形では見ないで、欲望と欲情の場としてみます。ちょうど仏教で煩悩ということを重く見るのと同じことです。それはあらゆる欲情と情念の乱れ渦巻く汚れた領域であって、これが感性的な自我を構成する」。これが意識の第1層だ。
②アン・ナフスッ・ラウワーマ:ラウワーマとは「やたらに批判したがるということ。…ああだこうだと文句をつけ回る魂」。「われわれの通常の分類で言いますと、理性とか、理性的機能の次元、意識の理性的領域に該当する」。スーフィズムでは、「理性の働きを、他人ばかりでなく自分自身の悪をほじくり出して批判し、批判する心の動き」と考える。「第1層の魂が示すようないろんな悪を自ら剔抉(てつけつ)し、糾弾する働きとして理性を考える」。「この作用を一つの領域と見ますと、これは倫理的、道徳的意識の場、すなわち良心の場」「理性的合理的自我が成立する場」ということになるとしている。
③アン・ナフス・ル・ムトマインナ:ムトマインナとは「落ち着いた」ということ。「要するに安定した安静な魂」「観想的に集中し、完全な静謐の状態に入った意識、これを一つの特別な魂」と考える。「静かで物音ひとつしない領域」。「ここでは、もはや第1層の感覚と欲望と情念のざわめきもありません。第2層の理性と思惟の波立ちもありません。ひっそりした沈黙と静謐の世界」。「魂のこの第3層をスーフィーは術語的にカルブ」とも言う。ウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキアがアートマンを説明して心臓に存在する神聖な内部の光と言っております。そして魂のこの第3層が意識および存在の神的次元の敷居に当たる」。「スーフィーは必ずここを通って意識の存在の心的秩序の中に入っていくと考えます」。
ふたつの深層意識
第3層の敷居をまたぐと、まずそこに「ルーフ」の世界が広がる。ここから本当の意識の深層が始まると井筒は言う。ルーフとは何かについては、「普通のアラビア語ではほぼ精神と言うような意味ですが、述語的には聖書でよく申します「聖霊」などの例に当たるもので、ここでも極めて特殊な意味として使われております」(『イスラーム哲学の原像』59頁)としている。
それは、「心の深みに開けてくる幽玄な領域。スーフィーの体験ではそれは限りない宇宙的な光の世界、輝き燃えて全世界、全存在界を燦爛たる光に照らし出す宇宙的真昼の太陽として形象化され」る。「宇宙的真昼の太陽」とも。とはいえ、それは物理的な太陽ではない。「神的な太陽が精神の当方から昇ってきて、無限に広い精神の世界を照明し、そこの内蔵されているいっさいの精神的可能性のエネルギーを発動させる」(『イスラーム哲学の原像』59頁)とも。
神秘主義的地理学の東方(精神の黎明、精神のイルミナチオ(照明)の場所と西方(太陽の光が闇に消える質量的暗黒の領域)の対比の中で、この「精神的な東洋に踏み込んだスーフィーは、主観的には今や自分は神から最も近いところにいると感じる」とする。つまり、この第4層は、「意識の最深部に最も近接した」領域なのである。
そして意識の最深部に位置するのが「シッル」と呼ばれる第5層である。シッルとは、「秘密」のこと。しかし、スーフィーの言葉づかいでは、「普通の状態では絶対に表に現れてこない魂のひめやかな聖所」であり、「普通の意味での意識を完全に超えた無意識の深み」である。「ここに至って修行者の自意識は完全に払拭される」
「彼の人間的実在の中核をなしてきた「われあり」の意識はあますところなく消え去って、無に帰してしまう」(=「ファナー」)のである。
「われこそは神」
このファナーの境地は、「絶対の無」であり、「主観、客観のすべてを呑み込んだ存在の無我が、スーフィーの無意識の場所としてそのまま絶対無の自覚として現れてくる、甦ると申しますか、これがスーフィズムの用語法でいう「神的われ」「神のわれ」の自覚」であるとする。この状態がファナー(消滅境)であるのに対してバカ―、すなわち「存在境」が現成するという。「そしてこの新しい自覚の現成において「神的われ」はスーフィーの口を通じて改めて「われあり」と宣告」する。「われあり」または「われこそは神」という宣告である。
この境地は、フセイン・イブン・マンスール・アルハッラージ(ペルシャの神秘主義者、詩人、西暦922年歿)の大胆不敵な、そして神に対するこの上もない冒瀆として世に有名な「アナルハック」に端的に表現されている」。「ハックとは真理とか、真実在とか、絶対者とか、つまり神ということ。定冠詞がついていますから唯一なる神、唯一なる絶対者」のことであると井筒は解説する。
自分を完全に消し去って、神の台座としてルーフだけの存在としてのわれにとって、それは、自分の口を通じてアッラーがしゃべっているに過ぎない。「ここまではるばる修行の道をたどってきて意識の最深部を開いたスーフィー自身の立場から言えば、神が自ら第1人称で「われこそは神」と宣言するのですから、これは冒瀆でも何でもありません」ということになる。しかし「当時の俗人たちはこの言葉をそういうレベルでは理解しませんでした」。結局、ハッラージは刑場に引き出され無残な死を遂げた。西暦922年のことだったという。
(第3回へ続く)
なお本文中の「」で示した引用は、すべて『イスラーム哲学の原像』による