朝、花の水をかえる時
朝のスタート 花瓶を右手に持ち 水をかえる 花を部屋に飾るなんてむずがゆい感じがして避けてきたけれど(虫も寄ってきそうだと思って)やっぱり花が視界にあるのは素敵だなぁ
蕾になっているものが日に日に花びらを広げてきて それだけで「わぁ」とつぶやきながら感動している 「綺麗に咲いてるね」と思わず花に話しかけたりなんかして もう完全に花の魅力に取りつかれているような
これではどんどん一人が楽しくなってしまうから ダメダメだなぁとも思うけれど次の休日には またお花屋さんに行くのだろう
休日 午後3時から5時の間は最もつらい時間で 西陽に急かされるように過去の複雑な思い出がよみがえってぼうっと町ブラか刑事ドラマをみる 教室のカーテンに包まって現実逃避していた頃みたい あの頃に戻りたいなんてこれっぽっちも思わないけれど
夜になると「明日は仕事かぁ」と思う 人は何か役割があるという幸せを感じられる生き物だと思う 仕事も「役割」だと思えばいい いつまでも学生モラトリアムに浸ってカーテンに包まっていいわけではないのだ
本当に? 本当だ 世間がそれを許さない
そういう思考になって苦しくなって ふと気づくと視界の中で花びらが揺れている 白い花びら ひとつ ふたつ 西陽に急かされるのではなく とても堂々しているじゃないか 私の怯えている様子を癒している
「だいじょうぶ」という根拠のない 無責任な言葉も 花が視界にいれば許されるような気がしている
昔から花は好きだった 花に水やりをして「綺麗だね」とつぶやくときが一番「私」でいられた 実家はいつも花だらけだったし 道端にも花が咲いていたし それが切なくも美しい幼少期のイメージで(あの頃に戻りたいとは思わないんだけどね)
「だいじょうぶだよ」
透明の花瓶が西陽を反射して屈折して 私の心を映し出す オレンジに歪に映し出す 無理矢理に強制するのではなく私の心をありのままに
「だいじょうぶだよ」
「私は生きてていいよ」
朝、花の水をかえる時 幼少期の私がそばにいる それは苦しいけれど 同時に私をやさしくしてくれる
「いってきます」
返答の無い真っ白な部屋を後にして 私は今日も役割を果たす 雑多な社会で生きていくためには 何か信じるものがなければならない 自分を信じる事ができたらそれが一番強いのだろう しかし私は信じる事が出来ない
悲しいけれど しょうがないのだ しょうがなくないけど しょうがない
「いってきます」
目をつむれば いつでも花が風に揺れている
「だいじょうぶだよ」