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同じところをぐるぐる回る遊び〜『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』レビュー〜

突然だが、サーキット走行というものをご存知だろうか?文字通りサーキットを車やバイクで走る事だ。僕は趣味でオートバイでサーキットを走っていた。過去形なのは、サーキットで怪我をしてしまい現在はサーキット走行自粛中だからだ。それはさておき、このサーキット走行の事を人に話をすると、概ね同じ様な反応が返ってくる。まず、「レースをやってるの?」と聞かれる。「いや、レースではなくただサーキットをぐるぐる走って回るんです」と答えると、「それって何が楽しいの?」と言われる。確かに他人から見ればそれが正直な感想だろうし、僕も自分でやるまでは何が楽しいのだろうと思っていた。だがこれが心底楽しい。そして最近、その楽しさとかなり近い体験をした。それがこの『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読んだ時に起きた体験だ。それは、一言で言えば繰り返すことの楽しさだ。

一般的には、繰り返すという行為はネガティブなイメージで使われる事が多いと思う。特にビジネスの領域ではそうだ。まずどんな分野でもマンネリはダメだ。次から次へと新しいものを求められる。そして同じ商品やサービスであったとしても常に変化を求められる。僕はウェブ広告の仕事をしているが、繰り返しなんて全く求められない。常に見た目も手法も目新しいものが要求される。そして恐ろしいことに、それが癖になっているのか、仕事以外の生活の部分でも常に変化を求める体になってしまっている。例えば、子供の頃は好きな映画や漫画を何度も見ることが当たり前だった。しかし、NetflixやAmazon primeがあり、見きれないほどのタイトルがあるために、同じものを繰り返しみる時間がもったいないように感じてしまう。その結果いつも新しいタイトルを見るようになっている。このような溢れるコトやモノは、あらゆる所に当てはまる。そして僕らはいつも変化を求めるようになっている。つまり繰り返すことは悪になっている。

しかし今回は繰り返すことが楽しかった話だ。ただ先に言っておくと、その楽しかった繰り返しとはこの本を繰り返し読むことではない。結論から言うと、繰り返し同じテーマを思考することが楽しかったのだ。この本は哲学者である國分功一郎氏と医師であり自身も障害者である熊谷晋一郎氏が、お互いの研究テーマについて問いを投げかけていく。そして対話形式により責任という概念について考察していく本だ。そして僕がこのテーマについて繰り返し思考できたのは、この本を読む前に既に國分功一郎氏の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(以下、『中動態』)と『暇と退屈の倫理学』(以下、『暇倫』)を読んでいたからだ。


『中動態』においては、本来近代において責任を規定しなければならない便宜上生まれたものが能動態と受動態であり、つまり「した者」と「された者」という規定をしなければ誰にも責任を追わせることが出来ない。ただ、本来人間の意志というものは、様々な因果関係からしか生まれないものであり、例えば貧困によって盗みをした人を貧困に追い込んだのはその人自身がどうにも出来ない環境によるものである場合も多い。このような考えは僕にとってとても新鮮な考えだった、ただここで疑問を抱いていたことがあった。それは、この考えでは何か起きた時に誰の責任でもないということになるということだ。これはとても問題だ。例えば部下がミスをした時に、そのミスの原因を突き詰めれば、教えた人、さらにその部下の生い立ちやその他環境まで考えて、その部下に責任がないという話になってしまうのは厄介だ。また『暇倫』では自由意志というものについて論じている。様々な環境に自分意思を左右されている現代人には自由意志を感じることは難しい。自分の意志でやらないことはその人の責任になるのだろうか?このような責任に対する疑問をもっていたのだが、本書は責任という概念をおおきく補強してくれた。

そして、責任に対する理解が深まっていった。例えば中動態というのは責任をとらないことではなく、中動態の世界だからこそどこかで自分で決めなければならない。それがなければ、ただ世界の環境の中で何も出来ず宙ぶらりんになってしまう。また例えば自分の意志というものに頼らなければ、どこかで物事を切断し責任を感じるという事が出来ない。このように責任に対して新しい視点が次々と出てきて、自分の中がアップデートされ理解が深まっていった。それはとても楽しい体験だった。

では、以上のように繰り返す体験が良い方向に行く場合と、前述の仕事でのマンネリのような繰り返す事が悪い場合は、何が違うのだろうか。そこでサーキット走行を思い出して欲しい。サーキット走行は、ただサーキットをぐるぐると同じように走るだけだ。だが細かく見ていくと意外と頭を使う。一つのコーナーでのブレーキのかけ方、アクセルの開け方、目線、体重移動、などなど、細かいところをちょっとづつ変化させて1周のタイムを削っていく。つまり同じ場所でも思考を更新させていく。それを繰り返す作業だ。対して仕事のマンネリは、何も考えないルーチン作業だ。だから、何も考えず単に繰り返すと毒になるが、思考を繰り返すと楽しくなり遊びになるということだ。

サーキット走行や今回の読書による思考の繰り返しは、繰り返せば繰り返すほど楽しくなり、気持ちよくなっていく。何だか良いこと尽くめに感じる繰り返しだが、一つ注意しなければならないことがある。それは繰り返しに耽溺するあまりに他に目が行かなくことだ。例えばいくら好きなマンガだからといって「ワンピース」ばかり何度も読んでいると、他の新しい面白いマンガを読む時間が無くなっていく。つまり機会損失してしまう。だが最初に述べたのようにあまりにも物もコトも溢れている現代では、機会損失を頭の片隅に置きながらもコレは繰り返した方が良いのでは?と立ち止まることも必要なのではないだろうか?

〈参考〉
『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』熊谷晋一郎、國分功一郎 著 新曜社

『中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 』國分功一郎 著 医学書院

『暇と退屈の倫理学』國分功一郎 著 新潮社

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