村上龍は何故モテる?〜『ユーチューバー』レビュー 〜
僕が初めて村上龍の存在を知ったのはテレビだった。「Ryu‘s Bar 気ままにいい夜」という、村上龍がホストを務める番組で見た記憶が最初だ。 この番組は1987年から1991年にかけて放送され、綺麗なアシスタントとゲスト、そしてホストの村上龍がトークをするという内容だ。当時高校生の僕が村上龍に抱いた第一印象は、なんでこんなに顔が大きくて(不細工ではないと思うが)そんなに格好良くない男がこんなにモテそうな立ち居振る舞いなんだろう?というものだった。モテたい盛りだった思春期の僕にとって、それはとうてい納得できない態度だった。今思えば、そこで探究心を持って村上龍の文学作品を読めば良かったのかもしれない。しかし当時の僕は嫉妬心しかなく、作品も読まなかった。そして恐ろしく短絡的な結論を出す。「作家はモテる」だ。少し前に夏目雅子と伊集院静が結婚したことも後方支援になり、作家というのは頭が良いからモテる職業なんだろうと自分を納得させるだけだった。
それから35年、村上龍の作品は一度も読んだ事がなかった。しかし今回の『ユーチューバー』は、読まずにいられなかった。何故なら35年前の答え合わせが出来ると思ったからだ。
この作品は、おそらく村上龍本人がモデルであろう主人公の矢﨑健介が70歳になった今、YouTubeで過去の女性遍歴を開陳するという内容だ。そう、まさに僕が35年前に抱いた疑問に対する答えがここにあるのかもしれないと思った。そして僕は初めて村上龍の作品を読んだ。
しかし、結論から言うと答えに辿り着けなかった。本を読めば、分かるだけでも14人以上の女性遍歴が書かれているので、やはりモテたし現在もモテることはわかる。だが、最後まで読んでも村上龍が何故モテるのかまでは分からなかった。僕はなんだか悔しくなっていた。答えがわかるだろうと思っていたのに裏切られたような気がした。しかたなく過去作を読んでみることにした。デビュー作の『限りなく透明に近いブルー』と、たまたま目にした村上龍の批評座談会でイチオシされていた 『五分後の世界』を読んでみた。「限りなく透明に近いブルー」は、70年代の福生を舞台に荒廃する若者の群像を描いた作品だ。その作品世界のイリーガルなセックス・ドラック・暴力は、自分が青年期であれば憧れを惹起されるに違いないと感じた。だが、現在の50歳の自分が読むと共感できない部分も多い。そして、『五分後の世界』を読む。第二次世界大戦後のパラレルワールドの日本を描いた作品だ。その世界では日本が連合国に分割統治されていて、日本人が地下でゲリラ化してずっと戦い続けているという内容だ。1994年に発表された作品だが、その現代日本人の甘ったれたアンデンティティー批判は、今読んでも首肯する所も多い。そして作中の戦闘シーンの表現は秀逸で、とてもグロテスクだ。
過去作を読んで感じたことがあった。長いキャリアを持ち、数多くの傑作がある村上作品のうち2作品しか読んでないので異論は認めるが、村上龍作品の根底にあるエロ・イリーガル・暴力・グロテスクという全ての人が共感出来るわけでない題材で、共感や相互理解なんて嘘っぱちだという事をさらけ出ししているのではないかと感じた。そしてその視点をもってもう一度『ユーチューバー』を読み直した。
すると、作品中に気になる箇所があった。それは、主人公矢﨑健介の現在付き合っている彼女の考えが書かれたところだ。この女性は作品の中で最初から最後まで登場する重要人物だ。この彼女の考えは、村上龍の考えを多分に投影していると考える。それはこんな一節だ。
”だが、死者の写真のことは、なぜか相談できない。”(『ユーチューバー』より)
これは、彼女が過去の死者の写真を見たときに起こる感情が、自分でも上手く理解できないことを説明する箇所だ。その説明できない感情を10ページにもわたり書いている。さらにそれは誰にも相談できないと言っている。理解できないし、相談もできないが、何か自分に影響を与えるものだと説明している。僕はこの死者の写真について、この世に物理的に存在しないモノの比喩のような気がした。虚構のもの、脳内のもの、概念、イデオロギーなども物理的に存在しない。それらは究極的には他人と共有出来ないという村上龍の考えなのではないかと思った。これはつまり、世の中には分からないこと、相談できないこと、相談しても解決しないことがある。そしてそれが普通の人間であり、「他人の考えがわかる」「共有できる」などと勘違いしてやいないか?という村上龍からのメッセージな気がした。そして、これだ!と思った。人間は共感など出来ない。他人と理解し合う事はないという前提。過去作品からも通底する共感を排除する思想。理解し合えないのだから、同じ目標に向かって一致団結なんて出来るわけがない。国家や会社なんて所詮は偽物。どこかに所属することで安心するのではなく、何処にも所属しない強さを身につけて安心しろという主張。これが村上龍がモテる理由だ。
そうだ。村上龍はどんな時にもオレはここに属してないぜ!って顔をしている。どんなところに行っても1人で大丈夫だぜ!って顔をしている。だからモテるのだ。村上龍の顔の正体は、1人で生きてます。野性です。餌をもらって生きていません。そんな顔だ。だからメスを惹きつける。その独立した男性性、オスとしての魅力が女性から魅力的に見えるのではないだろうか?
これで村上龍は何故モテるのか?という35年来の疑問は解けた。だが重要な課題が残ってしまった。それは、僕はどーすればモテるのか?だ。確かに作家村上龍は、その才能を持ってこの世界で一人で立っている。だが僕のような凡人は、何処かに所属して生きてしまっている。では僕にはモテない人生しか選択し得ないのか?それではあまりにも寂し過ぎる。だから何とかモテる方法を考えてみる。
僕を含めほとんどの人がどこかに所属している。しかしモテるためには、所属してない感じを出さなくてはならない。所属しないということでまず第一に考えられるのはニートだ。ニートはどこにも所属していない。しかしニートはモテないだろう。なぜならニートは経済力がないからだ。さらに所属していないかもしれないが独立もしていない。だからニートではダメだ。何かでお金を稼ぎつつ、どこにも所属していない感を出すにはどうしたらよいか?考えられる答えは、「いっぱい所属する」だ。一つの会社に所属してそこで給与をもらい、人生の大半の時間を会社での労働に費やすのではなく、例えば副業、例えばボランティア、例えばオンラインサロン、例えば趣味のコミュニティーというように、数多くの共同体に所属する。そうすれば必然的に一つの共同体への所属感は薄れていくはずだ。一つの共同体への所属感が薄れた時、擬似的ではあるがどこへ行ってもオレはここに属してないぜ!って顔が出来るのではないだろうか?だから僕のような凡人は、色んな所に所属しなければならない。したがって色んなコミュニティーに顔をだしてみる。これしかない。それは結構しんどいけれど、モテたいならやるしかない。僕は結婚してるからモテてもしょうがないけれど、やっぱりモテた方が良い。そして、僕もどこにも属してないぜ!って顔がしたいと考えている。
<追記>
こちらの文章は、村上龍の男性性についての考察が甘いと指摘された。なので、もっと村上龍作品を読んで、再びチャレンジしたいと考えている。ただ、自分の批評の現在地としてアップする。
<参考文献>
『ユーチューバー』(幻冬舎) 村上龍
『限りなく透明に近いブルー』 (講談社文庫) 村上龍
『五分後の世界』(幻冬舎) 村上龍