「ふつうの」という言葉は、もう使わない
私はちょっと変わった学校の学生で、そのことを良いこととも悪いこととも思っていないのだけれども、つい、「『ふつうの』学生です」とか、「ふつうです、ふつうです」なんて言ってしまうことがある。
私はちょっと変わった家庭環境で育って、そのことを良いこととも悪いこととも思っていないのだけれども、つい、「『ふつうの』家族です」とか、「いや、思ったよりふつうだと思いますよ」なんて言ってしまうことがある。
私はセクシュアル「マイノリティ」と分類されるセクシュアリティで、そのことを良いこととも悪いこととも思っていないのだけれども、つい、「ふつう」と自分のことを形容したくなってしまう。
「ふつうの」という言葉は安心を与えてくれる。でも、使うたびになんだかざらりとした気持ちがする。
私がそれを良いことだとも悪いことだとも思ってもいないという場合でも、それに「ふつうの」という言葉を付け加えると、そこには勝手に価値判断が伴ってしまう。「ふつうの」という言葉は暴力的なまでの規範性を持っている。
だからもう、私は「ふつうの」という言葉をなるべく使わない。そうしてみようと思う。
日本社会の上位1%に入るお金持ちの家に育った友人が、「うちはふつう」と言っていた。日本社会は分断されているということをまざまざと見せつけられた。お金持ちの人はお金持ちの人としか接点がないし、お金持ちに限らず、ほとんどの人が自分と大きく異なる状況の人たちとは出会いにくい。だから、彼の発言は間違ってはいないのだ。彼は彼の世界では「ふつう」なのだ。
彼は広い視点から客観的に自分のことを眺められるようになるまで、自分のことを「ふつう」だと言い続けるだろう。それはとても恥ずかしいことだと思う。
私自身の反省も込めて、もう一度書こう。自分のことを「ふつう」だと言ってのけるなんて、とても恥ずかしい。自分が客観的な目線を欠いていることを詳らかにし、そのことに問題も感じていない自分の感受性の低さをオープンにすることなのだ。
ああ、書いていて、自分の言葉が自分にぐさぐさと刺さってくる。そう、これは私の懺悔である。
言葉狩りをしたいわけではない。自分の意識を糾弾したいのである。
私が「ふつう」という言葉を使うとき、そこにはcommonとnormalの両方の意味が含まれている。だから気をつけたいのだ。commonとは何かをよく知りもしないのに、それをcommonと言うことを。それが狭い世界でのみ、まかり通っている道理かもしれないから。そしてそれを「ふつう」と呼ぶとき、そのことはnorm(規範)的な意味をもってしまうから。そのことで必ず、苦しむ人が生まれるから。
言葉の一つ一つに気を払い、丁寧に生きたい。そう思いつつも、不甲斐ない自分に時折酷く失望する。
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