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[推し本]中動態の世界 意思と責任の考古学(國分功一郎著)/スリリングな冒険譚!

「暇と退屈の倫理学」でお馴染みの(本離れと言われて久しいですが、この本がロングベストセラーであると言うことに希望を感じますね)國分先生。
中動態から始まる問いは冒険的に広がって行き、ラテン語研究からメルヴィルまで思いもよらぬところで点と点が繋がり、新たな問いが新たな探求の原動力にもなっていくかのようです。
難解なテーマで、著者自身も終わりが見えなかったであろう冒険譚のクエストを一緒に解決していくようなスリリングな読書体験でもあります。

さて、多くの日本人が初期の英語学習で刷り込まれる能動態と受動態。
日本語は主語があいまいで責任の所在がはっきりしないとなぜか劣等感を植え付けられると、これで何千年やってきたからにはそれなりの理由があるからではないかとも思いつつ(でもうまく言えなくて何かくやしい)、一方で、そんなに英語話者は飲み食い泣き笑い何にでも“私は”と行動責任の所在を認識しながら話すのか(なんだかしんどいな)、とうっすら思っていたのは私だけではないでしょう。

本書によると、能動vs受動のする・される(矢印でいうと⇆のイメージ)の2択だけではなく、古代にはその中間的な中動態が
あったそうです。ただこの中動態、能動と受動に言語が進化するまでの未成熟な概念というわけではなく、能動と中動の対立は、主語が過程の外にあるか内にあるかによるというもので、⇆とは次元が異なるコンセプトです。
確かに、人間は過去から完全に切り離されることもできず、外部環境の中でしか生きられないのだから、神の目線で能動的に語る方が本来取り違えているのではないかとも思うわけです。

“主語が〇〇する”(能動態)という時そこには主語が自らの意思で選択・判断して行動した、という了解がありますが、そもそもそんな自由意志があると言えるのでしょうか。

最終章のメルヴィルのビリー・バッド論は、徳と悪徳は社会通念の中で相対的(時代背景など変わればそれまでの徳も悪徳に捉えられるなど)なのに対し、善と悪は絶対的で、それゆえに説得も妥協も不要で暴力性を持つ、ゆえに相対的な徳・悪徳の方が善をも制する永続的な制度を実現できる、という点、善と徳を混ぜるな危険として戒めになる視点でした。

アレント、ハイデッガー、スピノザなどの論考を咀嚼し、再解釈し、先人たちの論点の盲点に切り込み、哲学に縁遠い一般読者でもなんとかついていけるように書かれた本書は労作だと思います。

意思と責任は、ある意味インヴェントされた概念で、責任を持たせたい場合に意思があったとみなされます(ので刑罰も与えられる)。これは小坂井敏晶さんの「責任という虚構」、國分功一郎さんと熊谷晋一郎さん共著「責任の生成」でも述べられています。


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