古代史随想(6)
いらしてくださって、ありがとうございます。
今回はまず、前回の朱砂(水銀・辰砂)にまつわる想像がらみで、ある物語をご紹介いたします。
今昔物語集・本朝世俗部・四(新潮日本古典集成)に収録されている話を(現代語訳はないため)ざっくり意訳で。
タイトルは『鈴鹿山にして蜂、盗人を螫し殺す語、第三十六』。
昔、京に水銀商をする富裕者があり、伊勢から京へと荷駄を運んでいるところを鈴鹿山で盗賊に襲われます。すべてを失った商人はしかし平然として、高い峰から空を見上げ「どこだどこだ、遅い遅い」とつぶやきます。
やがて、空に赤い雲があらわれますが、それは蜂の大集団。蜂たちは盗賊をみな刺し殺してどこかへ去っていき、商人は従者と荷駄とともに無事、京へ帰還し、ますます富み栄えたと。
この水銀商は家で酒を造り、それを蜂に飲ませて飼っていたとのことで、物語はこの一連の話を「蜂の報恩譚」として、さらに「蜂をむやみに殺すとあとで仕返しをされるから気をつけよ」と結んでいます。
この物語を読んで思い出したのは、日本書紀・欽明天皇条の冒頭です。
天皇の幼少期、夢に人が現れ「天皇が秦大津父(はたのおおつち)という者を寵愛すれば、のちに天下を治められるでしょう」というお告げがあり、その人物を探し出します。
秦大津父は、「伊勢に商いに行って帰るとき、山中で争う狼を仲裁し、命を助けた」といい、その報いで天皇に見いだされたのだろう、と。
この秦大津父はのちにおおいに富を重ね、欽明天皇即位後は、大蔵の司に任じられたと日本書紀は記しています。
伊勢に商いといえば、扱っていた荷は水銀ではないかと。今昔物語集は平安末期ごろの成立で、物語の信ぴょう性を云々することはできませんが、伊勢が水銀の産地であることは、698年文武帝のころに伊勢から朱砂が献じられ、1180年には東大寺焼亡の復興に伊勢から水銀二万両が貢上されていますから、人々に広く知られていたとして。
その水銀の商いを、秦氏が主導していたのかも、と考えるのです。
そうなると、フツヌシ(水銀の象徴神)→スサノオ(朱砂の王)であったなら、秦氏はそこにどうつながってくるのか……。
さらに気になるのは蜂なのです。
今昔物語集の解説には、平安期の京極太政大臣宗輔が、蜂を養って「蜂飼いの大臣」と呼ばれたことや、蜂の報恩譚が民話に多いこと、また、蜂は神使としても語られ、神仏あるいは国家の敵である賊を討ったという話も紹介されていますが……。
蜂といえば、蘇我馬子らによって弑された崇峻天皇の御子、蜂子皇子も思い出されます。
父君暗殺の折り、聖徳太子に助けられ都を脱出した蜂子皇子は、丹後国由良から出航、羽黒山にたどり着き羽黒三山をひらいたと伝えられており。
さらに日本書紀では、聖徳太子が「わたしのところにある仏像を誰か拝みたてまつる者は」と問われた際、秦河勝が仏像を譲り受け、蜂岡寺(広隆寺)を建てたと記しています(聖徳太子の供養のために建立されたとも)。
この蜂岡寺、『聖徳太子伝暦』によれば、推古天皇12年、聖徳太子が夢で見た霊地のことを秦河勝に語ったところ、河勝はその霊地は自分の所領の葛野だと言い、太子が葛野へ行くと、夢に見たような桂の枯木があり、そこに無数の蜂が集まって、その立てる音が太子の耳には尊い説法と聞こえたとも伝えられています。
聖徳太子と蜂と秦河勝。この組み合わせ、なにかを感じるのです。
そして「蜂」のことで最も気になっているのは、日本書紀の皇極天皇条に記されたこの一文。
この年百済の太子余璋(豊璋)が、蜜蜂の巣四枚をもって、三輪山に放ち飼いにしたが、うまく繁殖しなかった。
この一文が記されるのは、蘇我入鹿による山背大兄王(聖徳太子の御子)急襲と、秦河勝の常世虫の騒動の間で、かなり唐突に、前後の文脈に何のつながりもなく、なのです。
世を揺るがす一大事の間に、百済王の皇子・豊璋は、何を思って養蜂を、それも三輪山でやろうと思い立ったのか──。
これが我が国の養蜂の起源、といわれますけれど、単純にそのまま受け取るわけにはいかないような気もいたします。
とはいえ、三輪山は大物主神・醸造の神を祀っていることから、古代も「お酒といえば三輪山」だったでしょうし、さきの伊勢商人の物語からいけば、酒が豊富にある地で蜂を飼おうとしたのは道理とも言えますが。
ちなみにゾロアスター教では「蜂は忌むべき虫」なのだそうですが、出羽三山の蜂子皇子と伝えられる絵姿に描かれた容貌は、西域ペルシャの血統を感じさせもいたします。
秦氏と水銀、蜂と聖徳太子、崇峻天皇と蜂子皇子、そして豊璋……。
不思議な連鎖の意味を、このところ考えつづけているのでした。
それらを偶然と思えなくなった理由は、日本書紀の神武天皇・橿原即位の段のある記述に気づいたからでもあります。
『初めて天皇が国政をはじめられる日に、大伴氏の先祖の道臣命が、大来目部を率いて密命を受け、よく諷歌(他のことになぞらえてさとす歌)、倒語(相手に分らせず味方にだけ通じるよう定めていう言葉)をもって、わざわいを払いのぞいた。倒語の用いられるのはここに始まった』
日本書紀を読んでいると、ある意図(悪意)をもって書かれたとしか思えない記述にぶつかります。特定の人の名前や行跡にそれはよく見られるのですけれど、各段の最後などに、前後の脈絡なく記される一文に、また、時折挿入される「意味不明な歌謡」にも、なんらかの意図が込められていると感じています。
また、欽明紀から舒明紀にかけての出来事が、百済本紀に記される百済王家の出来事をほぼなぞっていることも気になっていて。これは百済本紀の成立時期から考えて、あちらが日本書紀を参考にしたとみるのか、そうでないならなぜ、日本の歴史書に百済王家の歴史を記さねばならなかったのかが謎であり。
……とはいえ、文献資料というものは、「自分の読みたいように読めてしまう」ものでもあり。あくまで小説のタネとして読んでいるのでそこはお許しいただくとして、自分なりの解釈ではありますが、それでも整合性はとれるように、これからもさまざまな資料にあたっていきたいと思います。
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今回もさまざま妄想を書き連ねた記事となりましたが、この古代史随想記事は議論のためではなく、シロウトの古代史好きが小説の素材としての考察をつづったものです。そのようにご理解のうえ読み流していただけましたなら幸いです。
また、コメント欄にて、記事にかぶせた政治・特定の人や団体などについてのご意見などはご遠慮くださいますようお願いいたしますね。
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最後までお読みくださり、ありがとうございます。
昨日はバレンタインデーでしたが、下校時刻後、あちこちにチョコの紙袋を持って真剣な表情で駆けていく小中学生の娘さんたちの姿がありました。みんな想いが届くといいねぇ。
今日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ
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