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わたしの個性論

 今から40年ほど前、「個性とその伝達」というテーマで「川柳展望」から一文を依頼されました。いま読み返してみると、説明不足は言うまでもなく、語句の意味づけや助詞の使い方などに問題があり、書き直したいくらいなのですが、今の私は、当時の自分をありのまま受容し、かつ開示する方を優先したいので、あえてそのまま転載します。

わたしの個性論
 個性ある人との出会いは、いつも例外なく快い。そしてその人から受ける印象も影響力も、そのほとんどが会った瞬間に決まってしまう。
 世の中に先生と呼ばれる者の数は多いが、わたしがためらうことなく師と呼べる人は、いま三人しかしない。マスコミ等を通じて尊敬に値すると思っている人はその数よりずっと多いけれど、ここで言っている三人とは、直接教えを受けた人という意味である。
 「教育の荒廃」ということがさかんに叫ばれている昨今だが、これらの現象は起るべくして起こったものであり、わたしは少しも驚いていない。今さら言うまでもないことかも知れないが、現代の教育、特に学校教育はもっぱら競争に勝つことを目標にして進められてきた。競争と言うからには、運動競技のように目的は一つのゴールであり、そこに至る方法も一つである。そして勝負は簡単に言ってしまえば物理的な力の差で決まった。同じ種類の競技をするのだから勝とうと思えば特定の能力において他人より勝ることに努力することが不可欠なのだった。結論を急げば、その世界では個性というものは忌わしく、捨てさるべきものであった。教育は、その単純な勝利の栄光をめざして、着々とそのシステムを完成させていったのである。
 大きなシステムの完成には時間がかかる。はじめのうちは良しとされていた目標も、そこにやっと到達したころには、皮肉にも社会が変わっていた。現在、世界的な傾向として、これまでわたしたちが信頼を寄せていた価値観が、目に見えて行き詰まりの徴候を見せはじめている。何が原因で何が結果かと決めることは到底できない相談だが、社会という巨大な流動体の中に、かならずどこかに歪が生じることは自然のなりゆきである。
 話が少し飛躍するかも知れないが、教育に限らず、世の中の荒廃の原因の一つは「他人と同じであることを求めつつ、量的に同じであることに満足しない」という完全に矛盾した意識の中にあるものと思われる。言いかえれば、同じラインの上を競争し、あわよくば勝とうとしていたことにある。いろいろ言いながらも、根本のところで個性を無視していたシステムの弊害が、今社会のあちこちで出始めている。
 わたしはもともと競争を好まない。しかし、百歩譲って競争を認めた場合、冷静に考えてみると、競争に勝った人というのは、他人の後を追い駆けていって追い抜いて勝ったというパターンよりも、始めから競争相手のいない道に踏み出して、後から他人が焦って追い駆けてきてもいっこうに追い着かないで、結果として勝っているように見えるパターンの方が多いのではないだろうか。「うさぎと亀」という寓話がある。単純な意味での競争にいかに努力が大切かということだが、うさぎだって最終的にはゴールに着いたことだし、長い目で見れば五十歩百歩である。わたしはそんなことより、うさぎも亀もいない山に一人で登りたいと思う。息を切らしてゴールをめざすよりも、ゆっくりと山の空気を吸いたい。
 個性に競争はない。競争しなくてもいつも一番である。わたしだって競争はいやだが一番は好きだ。
 ここまで競争についてわたしの考えを書いてきたが、それと言うのも、個性について論じようとする場合、全く反対の位置にある競争というものの意味をはっきりと押さえておきたかったからである。
 さて、このへんで冒頭に書いたわたしの師について述べなくてはならない。三人の師は言うまでもなくそれぞれに個性を持っている。その一人は、わたしが学生時代に教えを受けた畔上教授である。専門は電子工学だが、それ以外にも生体情報工学や宗教学、文芸評論等学識が広く、わたしがもっぱら魅かれたのは専門以外のところである。
 大学の授業と言っても一般的にはたいしたことなくて、ほとんどの先生は教科書の内容を解説しているにすぎない、と言っても過言ではない。先生ご自身の考え方や学説といったものはあまり話してくれない。もしかしたら自分自身の意見など持っていないのではないかと疑いたくなるほどである。そのような先生の講義にも、わたしは一応マジメに顔を出してはいたが、実際は後ろの方の席で小説や興味ある科学の本を読んでいた。教科書通りの内容なら、後から自分一人でも勉強できると考えていたからである。そう思ってはいたものの家でもあまり学校の本は開かなかったけれど……。
 しかし、畔上先生の授業はそれと全く正反対だった。その授業の様子をここで詳しく書く必要もないと思うが、一言で言うと、教科書には出てこない事、特に学問の方法について個性豊かに語ってくれたのである。先生は、内容の伴わない形式的な議論をとことん嫌っていた。また、正しくても間違っていても良いからとにかく自分の意見を言うことを絶えず主張していた。今になって考えてみるとなんでもないごくあたりまえのことなのだが、当時のわたしには先生の話されることがこの上なく新鮮なものに思われた。そして畔上先生の授業では一言も聞きのがすまいと、いつも耳をそばだてていた。
 畔上先生はペーパーテストでなくレポートによって成績を評価した。しかしレポートの目的というのがユニークで、内容が正しいかどうかということよりも、自分の頭で考えているかどうかが評価の基準だった。だから、いくら優等生的なレポートを書いても、その内容がどこかの本に書いてあるようなものではダメで、必ず個性が要求された。間違っていても良いと言うといかにも簡単そうだが、それどころか学問の本質を捉えた高度の思考が必要なのである。
 そのように、畔上先生は個性の塊みたいな人柄だったので、いわゆるマジメな学生からはかえって敬遠されていた。しかし聞くところによると、最近ではたいへん人気が高まったそうなので、時代の移り変りを感じないわけにいかない。
 本来なら、もっと具体的に畔上先生の個性について書けば、一つのおもしろい評伝になるのかも知れないが、また別の機会が訪れることを願うことにしよう。そこで、最後に一つだけエピソードを紹介して先生の話を終りにしたい。
 畔上先生が教授になったばかりの頃は、専門の研究での成果を学会誌に発表していたそうだが、内容があまりに独創的すぎると、いろいろな意見を言われたあげく結局誌上に載せてくれないことが多くなったと言う。それで近ごろでは発表の場を組織内の発行物でなく、民間の出版社による刊行物にしたそうである。フリーになったわけである。
 二人目の師もやはり大学の教授である。大学での授業に不満をもちながらも、尊い二人の師にめぐり会えたことは幸運の一言につきると思う。三人目の師が誰であるかは皆さんの想像におまかせしよう。
 話はかわって川柳界である。わたしが仕事の都合で姫路に住んでいた頃、「ひめじ句会」に参加する機会を得た。そこには川柳展望でおなじみの実力ある作家が集っていた。当時わたしはまだ川柳は駆け出しだったので無我夢中の状態にあった。それでも人の心というのはごく自然に伝わってくるものである。いつしかそれぞれの作家の個性がわたしなりにわかるようになっていた。ここで、句会に集まった常連の方々の持つイメージを、その頃のわたしが感じたままに紹介させていただこう。
 「句は芙巳代、論は冬二で、評夢草、若い酔古に、無邪気な礼子、鉄心ばかりが男じゃないと、締める新子の心意気」
 説明はいらないと思う。それぞれの道を歩む個性ある作家達である。そして、作家の個性を生かす編集方針こそが川柳展望の個性である。
 そもそも、個性を押え付ける芸術など存在するはずがないのだが、既製の芸術集団の中には.パターン化された作品を良しとする風潮もあり、芸術の根本を見失っている現実は嘆かわしい。
 川柳展望の最大の特徴は個人誌という性格にあると思う。正直なことを言うと、わたしがはじめて川柳展望の存在を知って、それが同人誌でなく個人誌であることを聞かされた時、たいへん不思議な気持ちがした。この議会制民主主義の時代になんと時代遅れな形態なのか、と思ったからである。しかし今はちがう、少し大げさかも知れないが、この川柳展望の形こそ新しい時代の自由主義の先駆けなのではないかと考えている。合議制という一見民主的な方法が、実は新たな実体のない独裁者を生み出し、民主主義の社会に生きながらも、どうもあまり自由でないところがあると感じるのはわたしだけではないと思う。
 たとえ潜在的であるにしても、これだけ個性が多様化してきた現在、たとえば多数決のような二者択一の原理はもはやあまり用をなさなくなっている。国会の進行を見てもわかるが、集団の意見を一つにまとめることがいかにむずかしくなってきたことか。
 このように言ってきたが、わたしは決して自由や民主主義を否定しているわけではない。方法が行き詰まってきたと思うのである。ここで根本に帰って、集団としてどうするかではなく、個人と個人のつながりに注目しなければならないのではないだろうか。
 先に川柳展望の個人誌としての性格、と書いたが、今の意見を読んだ方の中には、個人誌という意味をわたしが若干誤解していると思われる人もいるかも知れないが、厳密な考察をするスペースもないので、だいたいのことがわかっていただければそれで良いと思う。
 ところで、わたしは芸術全般に興味を持っていて、すばらしい作品に触れる度にわたしもやってみたい、とすぐ思ってしまう癖がある。そして実際、油絵、詩、作曲などといろいろ挑戦してみたが、満足する作品が得られないままに終ってしまった。現在でも続けているのが文章を書くことと川柳である。だいぶ無駄な事をしてきたものだと反省しているが、そのおかげで一つだけわかったことがある。
 絵でも詩でも音楽でも、それぞれの分野にわたしのお気に入りの作家がいる。そして、これが最高だと思う作品がある。それではわたしもひとつ始めてみよう、と思ってとりかかったものは全て失敗に終った。良く出来て模倣止まりなのである。そこで考えてみるに、これが最高と思うこと自体、わたしならこうするという批判精神や新規性が全く存在していない。そこに満足できる作品が生まれるわけがないのである。
 一方、散文や川柳はどうかと言うと、もちろん心惹かれる作品はたくさんある。しかし、わたしならと言うより、わたしでもまだ表現でさる余地が十分残されているように感じる。わたしが書きたくていることで、他の人が手をつけていない分野があちこちにある。言いかえれば、わたしは既製の作品に満足しきっていないのである。
 芸術に限らず、世の中にすでに存在するものを見たり聞いたりした時、そのまま恐れ入ってしまわないで、わたしなら……とにわかに頭をもたげるもの、それが個性であろう。
 「火の木賞」というものがある。しかし、作家がそれぞれの個性を完全に発揮して、誰が一番かを決めることが不可能になった時、新しい時代がそこからスタートするのだ。
(川柳展望・第34号・1983.8.1発行)

(注)文中にある「火の木賞」は、投稿された川柳作品の中から当時の主宰である時実新子が選んだ句を集めた「火の木集」に掲載された作品と作家を対象に、数年に一度贈られる賞のことです。

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