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優しさのギフトを君に

先日、息子が思い詰めた表情で私にぐいっと何かの紙を渡してきた。

ん・・・!ん!

まるでトロロの映画の中で「かんたくん」が「さつきちゃん」に傘を貸す時のような感じで、紙を私に押し付ける。でもその表情ははにかむとかではなく、ただただ言葉にできない悲しさで溢れているのだ。

その紙を手に取って見てみると、息子が大親友のお友達の6歳のお誕生日パーティーの招待状だ。

パーティーを開きます!
今回はみんなでゲームセンターに大集合。レーザータグで遊びましょう!

マイクラのキャラクターを組み合わせた招待状は、お母さんかお父さんがパソコンで手作りをしたのだろう。
そしてよくよく見てみると、パーティーの開催日が息子がどうしても外せない用事がある日だった。

「オレ、この日、行けない・・・」

息子の目に涙がいっぱいになってくる。
そしてそっぽを向いて、つぶやくのだ。

「大好きな友達の誕生日会なのに・・・」

行けない理由もちゃんと分かってるからこそ、息子はその悲しみを怒りに変換させて発散することができないでいる。
お誕生日会に招待されて嬉しい気持ちと、それなのに行けない悲しさの間で彼はじっと堪えている。

ニュージーランドに来て、まだ息子が英語を十分に話せず、一人で寂しくお昼にお弁当を食べていたときに、「一緒に遊ぼうよ!」と誘ってくれたお友達。彼のおじいちゃんはヨーロッパからの移民で、英語が話せないらしい。そんなおじいちゃんと小さい頃から言語を超えてコミュニケーションを取ってきたからこそ、息子が英語を話せないことは、彼の中でそんな「大したこと」でなかったのかもしれない。
そうして一緒に遊んだりふざけたりするうちに、いつの間にか英語で延々とおしゃべりをしてお腹を抱えて笑い合う仲になった。息子が「butt crack(お尻の割れ目)」とか「butt cheek(おしりのお肉部分)」という単語を学んだのも、きっとその友達からだろう。

マイクラの招待状をもらった数日後、小学校に朝送りに行った時に、夫がそのお友達のお母さんにたまたま会えた。そして直接、夫から
「今回の誕生日会は、どうしても行けないんだ。ごめんね。」
と伝えると、お母さんからは意外にも知ってたよ、との回答が来たという。

息子さんがその日は用事があるのはうちの子どもも知ってたの。
でも、招待状を送らないと、仲間はずれにしているみたいで、悲しく思うんじゃないかって。
ボクは親友を仲間外れにしたくないし、悲しませたくない。
そういって、招待状を渡すことにしたんだよ。

なんて優しさに溢れた子だろう。
私はその話を聞いて涙がでそうなくらい胸が打たれた。
そしてその後日談を息子に伝えると、息子は私の言葉を聞いて数秒、前をじっと向いたまま黙ってしまった。

ちょっと複雑な感情すぎたかな?

チラッと私の脳内にそんな思いがよぎるが、すぐに息子は私の思いを打ち消すように言った。

「優しいな。すごい。オレ、嬉しい。」

息子がしみじみとそのお友達の優しさを感じて胸がじーんとしている様子に、6歳の子どもたちのコミュニケーションというものがいかに私の想像を超えたレベルで、複雑でとてつもなく人間のあたたかさに溢れていることにびっくりする。そして同時に、やはり息子のお友達にまた感動するのだ。
本当に優しいなーと。

「優しい」という資質は、もっと世の中で評価されるべきものではないかと心から思う。
頭がずば抜けて良いことをギフテッドといったり、音楽だとか運動能力が尋常でないレベルの人を天才と称したりするのもいいけれど、優しい人こそ周りの人からたくさんの愛情をもらってきたという意味でギフテッドだし、そんなたっぷりの愛情をうけながらもエゴを歪んで肥大化させなかったという能力こそが天から与えられた才能とも言えるのではないだろうか。

しかし、この優しさというのは持って生まれた資質が大部分を決めるのか、はたまた年齢的、環境的なものもあるのか。できれば誰かに年齢や環境との関連性をそれっぽく説明してほしいと心から願う。

4歳の保育園に通っている娘は、無邪気でチャーミングで、明るくて人気者だ。そしてとてつもなく無慈悲である。
彼女は自分の中の好き、嫌いを明確に感じ取り、その感情にうまく蓋をすることはせずにまっすぐに外に向けて開け放ってしまう。

先日ショッピングモールに行った時のこと。偶然にも一つのお店の前で、保育園を辞めた先生にばったり出会った。しばらく会っていなかった先生に出会えて嬉しかったのだろう。先生を見かけると娘はたたたっと駆けていき、ギューっとハグをする。
その後先生と立ち話をして、いつ中国に戻るんですか?なんていう話をして、じゃあさようならとなった。
先生はしゃがんで娘にお別れのハグをしようと呼びかけてくれた。
しかし娘の方は私の足をぎゅっと掴んだまま離さずに、先生をチラリとみると、
「やだ。ハグしたくない」の一点張りである。
もう先生にいつ会えるかわからないし先生も寂しいよ、と伝えても、やだ、と私の足の後ろから全く一歩も動かない。
先生はしばらく両手を広げて待っていたけど、困った悲しそうな顔をしてひらひらと手を振って去っていった。

保育園でも同じような感じだ。
いつも姉妹か双子かというくらい、仲良しでキャッキャとペアになって遊んでいる韓国人のお友達がいる。
朝、保育園に娘が到着するのを見つけるなり、嬉しそうに娘の名前を呼びながら駆け寄ってくる。
そんなお友達に対して娘は五分五分の確率で、
「いやだ。あなたとは遊びたくない!」とピシッとその子の手を振り払ってしまう。
そして私に言うのだ。
今はそういう気分じゃないから。

保育園で過ごしていると、一日の中でたまにそのお友達と離れたくなることがある、と私に教えてくれたこともある。
ずっと娘と楽しく時間を過ごしたいお友達。たまに自分の好きなように自分のスペースを尊重してもらいたいマイペースな娘。
娘のその様子は「優しい」と形容することがなかなか難しい。

優しさというのは周りの人から、たくさんの優しさを受け取っていくことで徐々に開花していく極めて社会的な資質だとやっぱり信じたい。そしてマイペースで独特な感性をもつ娘が感じる人からの優しさというのはきっと特異なもので、まだ人から受けた優しさが彼女の中のコップで溢れかえるほどにはなっていないのだと勝手に思い込みたいものだ。

一方、息子の方は、お友達の優しさに触れながら少しずつ変わっていっている。
お友達と放課後にプレイデートをして一緒に夕飯を食べようと約束をしていた日のこと。その日に限って朝から息子はなかなか激し目の咳をしていた。
ニュージーランドはまだ寒い冬の真っ盛り。学校中に咳やら鼻水の子で溢れていて、彼もご多分に漏れず体調を少しだけ崩してしまった。
それでも熱はない。咳は朝だけで、学校に行ったらすぐ止まる。
そう一生懸命説明する彼は、午後に友達のうちに遊びにいく権利がオレにはある!と主張しているのだ。

しかし親の目からみると、このくらいの状況なら学校には行けても、人の家にお邪魔するのは阻まれるレベル。ましてやお友達の家には生後6週間の小さな赤ちゃんがいるのだ。
しかしこっちが無理やり色々言って説得しようとしても、余計突っぱねるだけだと分かっているので息子を放っておいた。

そして、しばらくすると息子はぼそっと呟く。
「オレ、今日プレイデート我慢する。赤ちゃんに風邪うつしたくない。友達が大切にしている妹だから」
息子は今にもやっぱりオレ元気で大丈夫!と前言撤回しそうな勢いだけど、それでもぐっと自分の感情を押し殺して、相手を思いやる気持ちをなんとか持てている。

とてつもなく優しいじゃないか!

息子がとても大きく眩しく見えた瞬間だった。

娘もあと二年たったら、今の息子のような優しさが持てるようになるのだろうか。
とりあえず、今日の朝は「急いで!」と一言も言わずに娘を保育園に送り届けられた。これもマイペースな娘に対して私が持てる優しさの一つだから。


【ワーママの1日をお届け!】私は2013年に日本で起業しました。会社経営をして11年。会社がフルリモート勤務になってもう4年目。おかげさまで、日本と時差が3時間のニュージーランドから、子育てをしながらはたらけています🙏
今回は、海外からリモートワークで勤務しながら、子育てをしている私の1日をお伝えします。
数年前は、こんなふうにはたらくのができるのかな?無理じゃないかな?とただ夢見ていただけなのに、なんだかんだで実現できていることに奇跡を感じます。人生ってなんとかなるもんですね!!
https://youtu.be/7GeTespgPcw



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