歴史好きにも難解な平安末期を伊東潤氏が“平清盛”を通して描く『平清盛と平家政権』。歴史ライター・西股総生氏による文庫解説を特別公開
伊東潤氏は、恰幅のよい作家である。
いや、何もルックスのことを言っているのではない。氏の小説は、古代から近世に至るさまざまな時代に題材を取り、また、本書のような史論や紀行物も多い。書くものの幅が広いのだ。
こうした「幅の広さ」を支えているのが、旺盛なリサーチ力であり、何より氏のあくなき好奇心であることは、作品を読めば直ちに理解されるところであろう。
また、一般には知られていないような人物や、細かな事件を掘り起こして題材とした作品もあるが、主役級の有名な人物を、正面から堂々と描くことも得意としている。丹念なリサーチに支えられた骨太の歴史像――それこそが持ち味であるゆえに、氏は作風の上でも「恰幅のよさ」を感じさせるのだろう。
本書の原型は、2011年に洋泉社新書として上梓されていた史論だが、版元の事情で品切れとなっていたところを、今回、朝日文庫から再刊されることになった。本書も、当時の社会的・政治的状況を適確に踏まえた上で、平清盛という超大物の人物像を骨太に描いている。
おそらく、平家に興味をもった一般の歴史ファンが、平家政権を知るために読む本として、最適の一冊であろう。しかも、朝日文庫に収めるに当たって、著者は随所に手を加え、第六章「そして鎌倉幕府へ」を書き下ろしている。再刊するなら自身も読者も納得する形で、というスタンスにも、あくなき好奇心とリサーチ力に通ずる著者の「恰幅のよさ」を感じることができる。
などと書いていると、解説として書くことがなくなってしまいそうで、いや実際、過不足なくまとめられた本書に、小生があえて加えることなどあまりないのだけれど、それでは解説を指名してくれた伊東氏に申し訳がない。蛇足とは知りつつも、平家政権抬頭の時代背景について、筆者なりの見地から若干の補足的な説明を試みてみよう。
日本の古代国家は、天皇を唯一絶対の頂点とし、律令という法体系によって統治される中央集権体制を目ざしていた。その大前提とされたのが、全国の土地と人民はすべからく天皇の所有に属するという、公地公民の原則である。全国の土地と人民が産する富は中央へと一元的に吸い上げられ、天皇とそれを取り巻く支配階級によって山分けされる体制である。
ところが、いつの世も支配階級という人種は貪欲なものである。奈良や京都に集住した貴族たちは、あらゆるやり方で法の網の目をかいくぐり、あるいは抜け穴をさがして、公地公民の原則を骨抜きにしていった。
こうして、「土地(地べた)は誰の所有に属するか」という本源的な問題を棚上げにしたところで、土地にさまざまな権益が設定されて、土地と人民の産する富は上へ上へと吸い上げられるようになった。この、利権システムが荘園なのである。貴族たちは、荘園という利権システムを漁って、家の資産としていった。
一方、全国に荘園が林立すれば国庫収入は当然、目減りする。いちばん割を食うのは天皇だ。何せ、律令という不磨の大典によって「全国の土地と人民は天皇のもの」と決められている以上、天皇には個人資産をもつ法的根拠がないのである。
そこで平安時代の中期以降、たびたび荘園整理令が出されるようになる。とはいえ、実質的な政策決定に与る政治家=貴族たちが、荘園利権の当事者なのであるから、荘園整理令は出しても出しても、すぐに骨抜きにされてしまう。
この難題を、斜め上の発想で解決したのが白河天皇である。白河はまず、皇位という公的立場を退いて上皇になった。上皇は、政治的には私人の立場であるから、公人である天皇とはちがって、身軽に動ける。
白河は「身軽な私人としての上皇」という立場を利用して寺を建て、そこに荘園を寄付させて、自分の財布として利用する手法を思いついたのだ。さらに自らが出家して法皇となれば、寺を持とうが運営しようが、誰からも文句を言われる筋合いはない。貴族たちが法の抜け穴をさがして資産形成に励むのなら、自分も私人として同じことをすればよい、というわけだ――より強い力をもって。
もちろん、膨大な荘園利権を管理・運用するためには、実務を適確にこなす有能なスタッフが必要だが、人材には事欠かなかった。朝廷で得られるポストが、家格によってほぼ決まっている平安の貴族社会には、野心と才能を持て余している中下級貴族が少なからず埋もれていたからだ。
上皇の事務局である院庁は、彼らにとって魅力的な働き口となった。しかも、膨大な利権を管理・運用し、結果として大きな権力を行使するとはいえ、院庁は所詮は上皇の個人事務所であるから、誰をどう登用しようが、上皇の勝手である。こうして頭角を現したリアリストの代表こそが、信西なのである。
一方で白河は、荘園化されていない土地、すなわち国司が支配する公領についても、資産化する方策を進めた。すなわち知行国主制というシステムである。知行国とは、権力者が国司の推薦権を持つ国を指す。要するに、自分の息のかかった子分を国司にねじ込んで上前をはねるわけだから、地方行政の利権化といってよい。この利権を、院と有力貴族(政治家たち)で山分けにして、それぞれの家の資産としたのが、知行国主制なのである。
全国の土地と人民が産する富は、荘園と公領という二つのコースに分かれ、何段階かの中抜きを経ながら上へ上へ=中央へと吸い上げられ、権力者の手元に集積されるようになったわけだ。こうして院のもとに集積された利権群が、天皇家(王家)の資産となる。伊東氏が第一章(35ページ)で、院が天皇家の家父長として権力を行使するのが院政だと述べているゆえんである。
さて、資産が形成されれば、次は相続が問題になる。ただし、公的君主である天皇は個人資産を持てないから、資産は院から院(または女院)へと相続される。となれば、院(相続対象者)の候補生であることが天皇の存在価値となって、皇位の継承は王家の資産相続問題と事実上イコールになる。
院政期における皇位継承問題や閨閥支配の本質は、ここにある。と同時に、貴族たちが利権によって系列化されてゆくのも、必然的な流れであった。保元・平治の乱といった政争の背景には、利権による貴族の系列化があったのだ。皇位継承のカヤの外に置かれた以仁王が不満を募らせた理由も、飲みこめるだろう。
次に、福原遷都の歴史的背景について概説しておこう。
もともと古代の東アジア世界は、圧倒的な国力・文明力を擁する中華帝国の周囲を、冊封を受ける衛星国がとりまく、という図式で成り立っていた。日本も、東の衛星国である。巨視的に見るなら、列島への稲作・金属器文化や仏教の伝来も、日本の国家形成も、東アジア世界というグローバル経済の中で起きた現象である。
世界地図の東アジアのページを広げて、中国から太平洋を眺めるアングルに地図を回してみてほしい。日本列島は、世界の縁にへばりついているように見えるだろう。そんな平安時代の“日本”で、東アジアのグローバル経済に接続する窓口となっていたのが、博多と津軽である(蝦夷地と琉球は朝廷の支配の外)。津軽から奥羽へと連なる物流ルートを押さえたのが奥州藤原氏であったことが、理解できる。
一方、当時の日本は中央集権体制をとっていたから、京・奈良が圧倒的な経済の中心である。だとすると、福原遷都とは本当は、日本経済の中心を東アジアのグローバル経済にダイレクトに接続する意義をもっていたことになる。
地方から吸い上げた富をひたすら消費し、一生を京・奈良のエリアで送る貴族たちと違って、忠盛や清盛は受領などとして地方に赴任している。地方で生み出された富が流通ルートに乗る現場を、実際に見て知っているのだ。もちろん、瀬戸内の水運がグローバル経済に接続している現場も、体感している。
ゆえに清盛は、福原という港湾都市の整備がもつ可能性に気付いたのだ。ただし、内乱が兆す中での権力集中策として福原遷都が強行されてしまったため、清盛の壮大な構想は結果として早産にすぎて、実ることがなかった。
ここでもう一度、逆さに回した世界地図を見てほしい。東アジア世界の縁にへばりついている弧状列島の中で、博多からも津軽からも遠い一番端っこに位置するのが関東であったことが、わかるだろう。
本書は最後の第六章「そして鎌倉幕府へ」において、鎌倉幕府の確立を概観することによって、清盛の死後を展望し、結果として平家政権の歴史的意義を総括している。こうなると、今度は伊東氏の手になる鎌倉幕府の物語を読みたい、との思いにかられる読者も少なくないだろう。
そのような向きには、文藝春秋刊の『修羅の都』と続編の『夜叉の都』をおすすめしておきたい。前者は頼朝の挙兵からその死までを、後者は頼朝亡き後の政子の生き様を描いた歴史小説だ。本書のような史論と文学作品とを、同じ作者の筆で続けて読むことができる――これもまた、恰幅のよい作家・伊東潤氏の魅力と言えよう。