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【伊坂幸太郎著『ペッパーズ・ゴースト』書評】鴻巣友季子「世界の航路に抗う希望の物語」

 伊坂幸太郎さんの『ペッパーズ・ゴースト』(2021年10月刊)は、作家生活20年超の集大成といえる傑作長編です。その魅力に迫る「小説トリッパー2021年冬号」に掲載された鴻巣友季子さんによる書評を紹介します。作品の主要部に触れている箇所がありますので、作品を未読の方はご注意ください。

 人間はすでに定まった宿命から逃れられない、自分たちの意志や努力ではなにも変えられない、という考えは古今にある。ギリシア悲劇、中国の天命説、イスラム教の宿命論や、キリスト教カルヴァン派の予定説など。

 実はあの『風と共に去りぬ』の有名なラストの台詞、Tomorrow is another day.の根底にも「人間にはなにも変えられない(だから明日のことまで思い悩むな)」という新約聖書「マタイ福音書」からの考えがある。決して「明日に希望をたくして!」といったポジティブ一辺倒の言葉ではないのだ。

 一方、『ペッパーズ・ゴースト』の世界観の土台の一部、あるいは跳躍板として機能しているのは、宗教観と無縁のニーチェの思想だ。ニーチェの永遠回帰の考えでは、キリスト教的な彼岸の存在や、東洋的な輪廻の概念は否定されている。すべてのものは始まりも終わりもなく、永劫に繰り返す。とはいえ、本作はそれをネガティブに捉えているわけではない。作中に何度も引かれるツァラトゥストラの言葉は、「これが、生きるってことだったのか。よし、もう一度!」である。

 人間が人生を「よし、もう一度!」と思えるのは、どんな時だろう。ニーチェによれば、人生で一つでも魂が震えるほどの幸福があったなら、それだけで、そのために永遠の人生が必要だったんだと感じることができると。そう生きることができたなら、「よし、もう一度!」と思えるはずだと、作中のある人物は説く。

 このへんで物語の概要を述べておこう。

 本作は、楽観主義者と悲観主義者、対照的な男性二人組の話で始まる。このアメショーとロシアンブルという「ネコジゴハンター」は猫の虐待者および“応援者”に残虐な処罰をくだしてまわっている雇われ復讐人だ。

 しかしこの挿話はじきに作中作だと判明する。教え子の女子中学生が書いた自作小説を、男性の国語教師が読んでいるという図式だ。この教師檀千郷にはある不思議な能力が備わっている。他人の、本人も知らない未来が突然見えてしまうのだ。突然フラッシュが焚かれたようになると、だれかの近い未来の映像が眼前に映しだされる。この現象は無作為に生じるのではなく、カラオケや食物の共有などを通じて飛沫感染によって起きる。映画「アバウト・タイム」のあのタイムスリップ能力のように、一家代々の男性に伝わる遺伝体質らしく、父は亡くなる前日にこの秘密を伝えてきた。

 家族の間でこの予知能力は〈先行上映〉と呼ばれている。檀はそれによって未来を見ることはできるが、なにか災いが起きるのを知っても阻止することはほとんどできない。未来を変えられない――彼はそのことに無力感と虚無感を覚えており、一方、過去に受け持ったある男子生徒に対してはこの予知能力を発揮せず、彼が傷害事件を起こすに至ったため、後悔の念を抱いている。

 あるとき、男子生徒の一人に、彼が翌日遭うはずの新幹線事故を知らせ、命拾いさせたことから、檀の人生が大きく動きだす。生徒の父で内閣府に勤める里見八賢と知り合い、しばらくすると、里見を探しているという男女から連絡がある。彼女たちが所属しているのは、何年か前に起きた人質籠城爆破事件「カフェ・ダイヤモンド事件」の被害者遺族でつくられたサークルだった。そのメンバーの一人、成海彪子という女性が途中から語り手/視点人物に加わる。

 とはいえ、伊坂作品なので、たんに檀と成海の交替ナレーションで終わるはずがない。前述した教え子布藤鞠子が書き、檀が読まされる「ロシアンブル」という小説も、そこに並走する形で綴られていく。外枠(現実世界)にある予知能力をもつ男とテロ被害者遺族の会の物語と、内枠(虚構世界)にある「ネコジゴハンター」の復讐談が交互に現れるのだ。

 当初は、檀が鞠子の小説を読んで感想を言ったり、アドバイスをしたりすると、次の章の「ロシアンブル」にそれが反映されたように見えている。だが、この小説に出てくる二人、とくにアメショーは自分が作中人物であることを意識しており、自分が小説の一登場人物にすぎないのではないかと考えたりするのだから、あやしい。やがて……。

 そう、中ごろの時点で、とあるかたちで虚構と現実の境が融解する。

 内枠の物語にいるアメショーが、読み手の世界認識を一変させることを言うのだ。この鞠子が綴るネコジゴハンターの物語は、どのように回収されるのか?

 さらに、檀たちがいるのは虚構の世界であり、神である創造主がすべてを決めていて覆せないのか? それとも、創造主のコントロールを逸脱して物語が自走しはじめているのか? アメショーは「全部決まっているってことですよ」とか「僕たちが抵抗しようとしても何も変わりません」と言ったりする。

 作中人物がこうしたメタ意識をもつ小説は多く書かれているだろう(と、檀も作中で言及している)。たとえば、グレアム・グリーンの『情事の終り』。作者の情事に基づく不倫小説の傑作として知られているが、実はこれは、創造者と被創造者をめぐる物語でもあるのだ。土砂降りの夜に公園を歩く人物の姿を、主人公の作家ベンドリックスが想像(創造)する見事な冒頭シーンがある。彼は小説を書いていると「座り込んだかのように動こうと」しない登場人物たちがいると愚痴ったり、神からすれば、自分たち普通の人間はこういう「詩心も自由意志もない登場人物」と同じでないかと考えたりする。創作において造り手である彼は、神の登場人物の一人になることを心底恐れているのだ。

 このベンドリックスにとって衝撃だったのは、恋人を奪った相手が神だったというだけでなく、それが己の創造的自我を脅かすものであったからだろう。人間という小さき創造主から、神という大きな創造主への抵抗。堂々巡りする。

 しかしながら、アメショーは作中人物であることへの屈託はまるで見せようとしない。物語内にいることを悟りつつおとなしく役を演じつづけることこそが、アメショーの言う「物語の都合」ではないか。作者伊坂幸太郎は自作までをも風刺してみせている。

 さて、テロで両親を亡くした成海彪子が所属する被害者遺族の会には、婚約者を亡くした庭師、姉と両親を亡くした二十代の男性、息子を亡くした医師の夫婦、元小学校の校長などがいる。だれもが、真面目に「行儀よく」生きてきたのになぜこんな目に遭うのかという憤懣を押し殺して生きているのだ。「カフェ・ダイヤモンド事件」の犯人たちの目的はなんだったのか? それが悲劇的な結末に終わった裏にはなにがあったのか? 彼らの活動と里見八賢の失踪との関わりは?

 このへんはさすがにネタバレになるので書くのは憚られる。100日間で80万から100万人の人たちが死んだルワンダ虐殺が例に挙げられている。始まりは一つのラジオ局が「隣人を殺せ」と煽ったことだと言い、刷り込みと洗脳による噂の機構の恐ろしさ、言葉の暴力について語られる。

 人間に、ものごとの成り行きは、世界は、変えられるのか? 『ペッパーズ・ゴースト』において、この根源的な問いは、三つの仕掛けを通じて繰り返し発せられる。一つはサークルのメンバーが『ツァラトゥストラはかく語りき』を通して知るニーチェのニヒリズム、二つめは檀が見せられる未来の〈先行上映〉という仕掛け、そして三つめが布藤鞠子の書いている小説だ。言い換えれば、一つめはこの物語外部にある哲学思想、二つめはフィクションの産物である架空の能力、三つめは小説というフィクション機構そのものが、世界の成り立ちに疑問を投げかけているのだ。この位相の違う三つによって、登場人物ひいては読者は、つねに問いかけられることになる。

『ペッパーズ・ゴースト』は悲観的に見えて、ひとつの希望の書だとわたしは思う。わたしたち人間がなにをしても世界の航路は変わらない、ものごとは反復するのみであるという諦観を抱えつつも、己の無力さに挫けず、わずかながらでも生きる光を見出すための果敢な物語だと。それは、カミュが『ペスト』で、あるいはサラマーゴが『白い闇』で描いたような、再帰的に訪れる理不尽な災禍との果てなき戦いに、それでも屈せず生き延びようとする人間の姿と似ているのではないか。主人公の予知力の発現に「感染」を導入したのが、象徴的かもしれない。

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