見出し画像

朝、コーヒー豆に指を突っ込んでみる。コミュニケーション能力の上げ方は、ひとつじゃない。

 おはよう。こんにちは。こんばんは。ダンサー・振付家のasamicro(アサミクロ)です。このnoteでは、小学生から10代までの少し生きづらかった日々を思い出しながらも今見えている景色を見つめながら、暮らしのこと、教育のこと、踊りのことなどをざっくばらんに書き留めてゆきます。できるだけもう少しライトな形で更新を続けられないものか。。。

 そこで、どこに需要があるかわかりませんが、日々の関心や、考えていることを呟きながらも、そして苦手をボヤきながら自分メモ(自分議事録)を目指します。不登校だった9年間あんなに毎日休まず日記を書けていた自分よ目を覚ましてくれ。

ではいくよ。

ジャン!!!!皆さんに質問です。

この食べかけのキャロットケーキの写真を見た時、あなたはどこから触れたいですか?そしてその触れた場所はどんな感じですか?

 これは大好きなDEAN & DELUCAのキャロットケーキ。ご褒美に買って帰ったやつ。多分大きな公演終えての普通の稽古帰りだった気がする。お持ち帰りで、リラックスな部屋で珈琲淹れてキャロットケーキを食べる時間はこれ以上の幸せないんじゃない?くらいに私は幸せな気持ちになります。そうでしょ?

 さて、質問に戻り。右利きなら右手。左利きなら左手で。それぞれ人差し指を一本出して、気になった所を【スーっ】となぞってもいいし【ツンツン】突いてもいいし、きっと指は油で少しべとべとになると思うけど、触れた瞬間どんな感じで、どんな言葉の音が似合っているのだろう。スポンジのところは?クリチ(クリームチーズ)のところは?いやトレージングペーパーの所も気になる。食べて最高に幸せだけど、食べる5秒前、いや食べてる最中でもいいけど、ちょっと指で触ってみたい。そんなことを考えた時、あなたはどこから触れてみますか?

コミュニケーション能力の上げ方は、考えているよりも、ひとつじゃない。

 私はこれまで、自身の経験をもとに、教育関係者の方々や、不登校・引きこもり支援団体の方々と共に、ディスカッションの機会や講演会などにお声がけ頂きながら行動を共にすることがある。

 その中で割と頻度高く話になるのが、「話せない」「喋れない」「コミュ障だ」と言った、集団生活において、あるいは学校と家庭で、はたまた家庭内の親子でのコミュニケーション不足や意思疎通の困難さである。この手の話や空気感は私は痛いほどよく気持ちが分かる。なぜなら、私も小学1年生から中学校3年生の約9年間、決まった相手としかあまり話すことができなかったからだ。とても閉鎖的な環境の中で過ごし、どんどん自分自身の気持ちを言語として伝えることが出来なかった。出来なかったというよりも分からなかったと書いた方が正しい。本当に言葉が当てはまらなかった。

 でもね、今ご一緒している教育関係者の方々とよく対話し、私自身も踊りを通して癒され、強くなり、気付き、弱くなり、そして今がある。その中で向き合いたい問いや考えがある。

コミュニケーション障害なんて、本当はこの世に存在しない

である。
 社会の中で過ごしてゆくと、あたり前だが、言語が必要であり、伝えなくては伝わらない。仕事とという場面では特に重要である。ここで伝えたいのは【喋らなくてもいいよ】ではない。私たちは少し、受け身の視野に偏りがあるのではないかとということである。

 コミュ障というのは、発言することが苦手な人を言うのではなく、相手の言葉を受け取る幅が少ない状態、つまり受け手の能力としても考えるべきではないのか。人は誰でも必ずメッセージを送っていたり、考えを持っている。そういう時に発話のみに頼るのではなく、ちょっとした身体の揺れや視線、行動パターンなど含め、皮膚から受け取れる情報は沢山あり、

「もっともっと皮膚感覚が豊かな大人たちが増えてゆけば、もっともっと何かが変化するかも知れないね」

そんなことを話し合ったりしている。

玉ねぎの皮で染めたよー!
靴下をトライしました!だいぶお気に入り。

 上の写真は現代美術家であり友人の山本愛子さんのアトリエにお邪魔し、染め物体験をさせてもらった。彼女は沢山手を使って、多くのものに日々触れている。暮らしの環境から直接的に創作活動にも影響を与えているんだろうなと感じる。そして、なんとなく言葉の表現が具体的にいつも解像度が高い印象を受ける。自然豊かな時間の中で、微力な変化をキャッチしながら手を使い、考え、物事を立ち上がらせてゆく体感の中に、どれだけ多くの言葉が生まれているのだろうかと、ふと思い。尊敬できるプロセスだった。そしていつも可愛いらしく勇ましいのが彼女の魅力。

即興パフォーマンスを経て

打ち上げ風景。素敵な方々とご一緒でした。

先日、アーティストの簗瀬晃希さんの展覧会【生き纏う】
第8回横浜トリエンナーレ「草野:いま、ここで生きてる」応援プログラム
にてコラボレーションパフォーマンスを行いました。

 とても、良き体験をさせていただきました。この展示でも「触れる」がテーマでもあったのでなんだか、このタイミングにご縁を感じ、晃希さんの真摯な取り組みや、建築的な学びを経て、空間と身体の関わりやそこから生まれる感情との向き合いなど、そういった思いがある中で踊らせて頂き感謝な時間だった。

PARADAISE AIRの皆様と

そしてめちゃ最近。ある企画でworkshopにお声がけ頂き、打ち合わせを行ってきました。どうしようか悩んでいましたが率直に上記に話したような観点から“触覚に少し向き合いたい”と相談するとPARADAISE AIRの皆様さすがで、とても素晴らしアイデアやアクションをくださり、いい感じに発展しそうです。この様子はまた今度更新してアップしてゆきます。

 そんな訳で、現在、私が主宰をしているダンスカンパニーegglifeは来年新作発表を予定しています。それらに向けて、リサーチというか色々学びをしています。ただ、新作に限らず、私は時間をかけて、この皮膚感覚や、コミュニケーションの豊かな取り方を身体を通して作品を通して学び、実践してゆきたいと思い、動き出しました。

【触覚】は五感の中でも一番にはなりにくい感覚だと思っています。たくさんのデジタル機能で小学生の視力は年々低下傾向にあるというニュースを聞いた時、視覚から得られる情報と同等くらいに触覚を起こしてゆくことも生きる知恵や優しさにつながってゆくのではないかと本当に思う。そして何よりも、言葉にできない、言葉が出てこない、発言できない人たちの声が無かった事になりたくないなって小学生の頃の私を思い出して考えています。

 世の中を動かす程大きなことはできなくても、今日クラスにいる一人の子の発話しない身体から、少しだけ解像度高く心の声を受け取れる学校の先生や周囲の大人がいたら、その子の世界はきっともう少し広いと思う。

そんなことを考えながら、私は創作をしてゆきたい。

撮影:大洞博靖
egglife自作に向けて頑張るぞーーー!!


結局。。。。全くライトに書いていない笑
スイッチ入ると長くなってしまうから、続かないんだよね、言葉の表現もはちゃめちゃだけど、最後まで読んでくださってありがとうございました。

こんなことを考えながら、今朝目が覚めて、コーヒー豆の瓶の中に指を突っ込んだ。「ザザザ、」と指が入り込み、豆の丸みと隙間で指にあたる一部の感触はコーヒー豆の瓶の中に指を突っ込んだ人しかわからないものだ。

 いつか、この感覚が言葉や動きになるかも知れない。

asamicro


いいなと思ったら応援しよう!

asamicro
制作活動を行うにあたり、あなたの力をどうか貸してください!ご支援頂いたサポートは国内・国外で朝ごはんダンスの展示やパフォーマンスが出来るように使わせていただきます。