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穂積型苦痛主義:苦痛主義と無生殖主義(反出生主義)を両立する方法

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概要

書いてみたら思いがけず長いブログポストになってしまったので、どういう話をするのか冒頭で簡単に説明しておきます。

このブログポストでは、R. D. ライダー氏の提唱する純粋な形の苦痛主義を「ライダー型苦痛主義」と呼び、その基礎を説明します。
そして、ライダー型が抱える重大な問題を解消することのできる「穂積型苦痛主義」を提唱します。

ライダー型苦痛主義は、少なくとも理論上、非常に特殊な条件下では苦感能力(苦痛を感じる能力)を持つ意識を生成することを許容してしまいます。
しかし、苦感能力を持つ意識を作ることはすなわち、その意識にとって唯一確実に存在すると分かる世界(その意識の知覚内容)において常に最大苦感者となる者を作ることであり、無生殖主義(反出生主義)はこれを許容しません。
ライダー型苦痛主義と無生殖主義(反出生主義)との厳密な両立ができないという問題を解消するためには、ライダー型苦痛主義の原則リストに「苦感能力を持つ意識は作られてはならない」という原則を加え、それにとりわけ強い拘束力を与える必要があります。
そうして完成するのが「穂積型苦痛主義」です。

「独我論型苦痛主義」などと呼ぶことも考えなかったわけではありませんが、私はまだ独在論を充分に理解してないので、今はこの名前で通すことにしています。

苦痛主義の支持に至った経緯

私がどのようにして苦痛主義の支持に至ったかという話は苦痛主義の正当性には何の関係もないことではありますが、私自身のための備忘録も兼ねて最初にここで説明しておきます。

2020年頃、苦痛の持つ純粋で自明な悪性を根拠として「有感生物は生殖してはならない」「物質世界は実在してはならず、実在する場合には存在終了を目指す施策がとられなければならない」などの結論を導出する私の立場に名前を付けたいと思った時、最初に思いついたのが「painism」(ペイニズム/苦痛主義)でした。
その語を使い始めてしばらく経ってから初めて、実は「painism」という語を私よりも先にすでに使い始めているヒトがいたのだと知りました。
それがリチャード・D・ライダー氏です。
「Painism」と名付けられるような立場ならばその中身を知る価値があるだろうと考え、ライダー氏の著書『苦痛主義:現代の道徳(原題:Painism: A Modern Morality)』(2001)と『種差別主義、苦痛主義、幸福:21世紀の道徳(原題:Speciesism, Painism and Happiness: A Morality for the Twenty-First Century)』(2011)をドイツから届けてもらって読みました。
苦痛の純粋で自明な悪性(これは私の言葉であり、ライダー氏のものではありません)についての記述は全て私の考えと一致しましたし、複数の意識間で苦痛や快楽を合算して考える功利主義の誤りに関しても即座に同意できました。
こうして私が苦痛主義を支持する反出生主義者(無生殖協会の設立後は『無生殖主義者』)となったのが、恐らく2022年のことでした。

ところが、「苦痛主義は苦感能力を持つ者の生成をある条件下では許容できてしまい、したがって無生殖主義と厳密には共存できないのではないか」という考えが、近年の私をひどく煩わせてきました。
それで、無生殖主義との両立が可能な苦痛主義の形を作ってそれを「穂積型苦痛主義」と呼ぼう、と以前のブログポストでちょろっと述べたのですが、それだけに留めておくにはあまりにも重要すぎる話題なので、この度ブログポストを丸々一つ使って説明(し、その過程で自分自身のためにも穂積型の諸相を明瞭化)することにした次第であります。

苦痛の純粋で自明な悪性

苦痛主義は功利主義や権利論などと並ぶ倫理学上の立場の一つです。
苦痛が持つ純粋で自明な悪性を出発点として、「物事の倫理的な価値は個々の意識の主観的な苦痛の経験によって決まる」「複数の意識間での苦痛(や快楽)の合算は倫理的に無意味であり、意味があるのは最大苦感者の経験する苦痛の程度である」などの主張を支持します(Ryder, 2001, pp. 26-28)。
ライダー氏や私の言う「苦痛」とは、退屈、切り傷、骨折、悲しみ、怒り、打撲などの主観的経験に共通する性質で、これらの経験を悪いものにするものです。
私はこの意味での苦痛を最も正確かつ簡潔に定義する文言として、「純粋で自明な悪性を持つ主観的経験の質」を使っています。
苦痛は他の物事を悪いものにできる唯一のものである、という意味で苦痛の悪性は「純粋」であり、「苦痛はなぜ悪いのか」という問いには循環論法的な答えしか与えられない(苦痛とは悪さが主観的に経験される時にとる形態であり、悪さとは苦痛をもたらす性質のことである;苦痛と悪は互いを定義し合う)という意味で苦痛の悪性は「自明」です。

苦痛主義の原則リスト

ライダー氏は重要な主張を「原則」という形で文中に挿入することで、『苦痛主義:現代の道徳』を理解しやすいものにしています。
全部で42個ある原則は、(ライダー氏本人ではなく私の手によって)3種類に大別できます:

  1. 倫理/道徳全般に関する原則

  2. 苦痛主義に関する原則

  3. 1と2を現実世界の倫理問題に適用して導出される原則

まずここでは1と2の「倫理/道徳全般に関する原則」「苦痛主義に関する原則」を列挙(※1)し、純粋な(※2)形の苦痛主義――これを「ライダー型苦痛主義」と呼びましょう――を紹介します。
その後、ライダー型苦痛主義に対して私の提案する「穂積型苦痛主義」を、原則リストの更新という形で解説します。
なおライダー氏は、普段の私と同じように、「倫理」と「道徳」を同じものを指す2つの言葉として使っています。
このブログポスト(に限らずこのウェブサイト全体)では「倫理」と「道徳」は互いに読み替え可能です。

※1:ほとんどが『苦痛主義:現代の道徳』からそのまま訳したものですが、それだけでは意味の通らないものもあるので、そのような原則には [ ] に入れて補足をつけています。
※2:私が「ライダー型苦痛主義」と呼ぶものは、ライダー氏が提唱する苦痛主義のそのままの形であるという意味で「純粋」です。「純粋」が「完全」や「正当」を意味するものでないことは(当然お分かりだとは思いますが)ご留意ください。

ライダー型苦痛主義の原則群1:倫理/道徳全般に関する原則
原則1:道徳は他者の扱いの善悪にのみかかわるものである。
原則2:道徳は我々に行動選択を円滑にする枠組みを与え、我々のストレスレベルを下げてくれる。
原則3:政治や法令は、大規模に実践される応用倫理である。
原則4:行為の結果を(可能な限り正確に)計算するために必要な時間と情報がある、または状況が前と違ったり特殊だったりすると考える正当な理由がある場合を除いて、倫理原則に従うべきである。
原則20:倫理の本質は利他主義にある。

ライダー型苦痛主義の原則群2:苦痛主義に関する原則
原則5:苦痛(苦しみ)が唯一の悪である。
原則6:道徳の目的は他者の苦痛を軽減することである。
原則7:正義、民主主義、平和、平等、自由のような目標や理想は、苦痛を減少するという目標を達成するための方法としてのみ善い。
原則8:最大苦感者の経験する苦痛の程度は、苦感者の数よりもはるかに重要である。
原則9:種差別主義は常に誤りである。
原則10:複数個体間での苦痛と快楽の合算は無意味である。
原則11:我々の道徳的配慮が最初に向けられなければならないのは、常に最大苦感者である。
原則12:ある者の快楽を増大するためだけに他の者に苦痛をもたらすことは常に誤っている。
原則13:[ある者の苦痛軽減を達成する手段が複数ある場合、他の者にもたらす苦痛が最も小さいものを最初に試すべきである。] 代替手段がない場合にのみ、他者に(同意なく)苦痛をもたらすことが許容され得る。
原則14:[ある者の苦痛を減少するために他者に苦痛をもたらそうとする時には、] 軽減される苦痛は激しいものでなければならない。[Bの苦痛を軽減する行為が全てAに苦痛をもたらすものである場合、その行為が正当化されるのはBの苦痛が激しいものである場合だけである。]
原則15:[ある者の苦痛を減少するために他者に苦痛をもたらそうとする時には、] その行為は成功する可能性の高いものでなければならない。
原則16:得られる利益が何であろうとも、激しい苦痛を長期間にわたって故意にもたらすことは必ず誤っている。したがって、利益にかかわらず、拷問は必ず誤りである。
原則17:行為の影響を受ける者(moral patient)の経験は、常に行為者(moral agent)の動機よりも重要である。
原則18:[Bの苦痛を減少するためにAに苦痛をもたらし得る行為を試すならば、その行為で] Bの苦痛を軽減することのできる可能性は、Aに苦痛をもたらす可能性と少なくとも同程度でなければならない。
原則19:苦痛は、快楽が善であるよりもさらに強力な悪である。

(Ryder, 2001, pp. 4, 6, 10, 24, 27, 28-31, 41-42, 57, 65, 穂積訳)

これら20の原則を提示した後、ライダー氏は第2章「苦痛主義:新たなアプローチ」を以下のようにまとめています。

このように結論できる:

  1. あらゆる形の苦痛を含むよう広く定義された「苦痛」は、唯一の悪である。あらゆる道徳的目標は全て、苦痛を減少するという目的を達成するための手段である。

  2. 苦感能力を持つ個体は、意識という境界で外界から隔てられている。したがって、複数個体の苦痛を合算しようとすることは無意味である(苦痛主義はここで功利主義と袂を分かつ)。

  3. 苦感能力を持つ個体は、人種や生物種にかかわらず、道徳的配慮に値する。

  4. 最大の苦痛を経験する者(最大苦感者)に、最初に配慮が向けられなければならない。行為の道徳的価値は、その行為の影響を受ける個体の数ではなく、最大苦感者が経験する苦痛の程度によって計られる。 

(Ryder, 2001, p. 65, 穂積訳)

穂積型苦痛主義の実践に必要な原則リストは、原則8の前に原則Xを加え、その拘束力がとりわけ強いものである(原則Xと他の原則が競合する場合、原則Xが優先される)ことを特記するだけで完成します。

原則X:苦感能力を持つものが作られてはならない。

あるいは、原則1の趣旨を取り込んでもう少し主客を明確にした形に書き換えるならば、「行為者は苦感能力を持つものを(直接的か間接的かにかかわらず)作ってはならない」となります。
この原則Xが禁止することは例えば、有感生物が生殖して自身の生物学的な子孫を作ること、他者に金を払って有感生物を作ってもらうこと(食肉や牛乳、卵などに金を払うことで畜産を経済的に支援すること)、苦感能力を持つ人工知能を作り出すこと、苦感能力を持つと推定される野生動物たちが生殖して何世代もの苦感者たちを作り続けることを止める現実的な手段があるのにその実行を怠ることなどです。
これらは原則群3に加えることができますね。

穂積型とライダー型の重要な違い

穂積型苦痛主義を実践するのに必要な原則リストとライダー型のそれとの間にはわずかな違い(原則Xの有無)しかないので、一見しただけではこの2タイプの苦痛主義の間にさほど重大な違いがあるようには思われないかも知れません。
しかし穂積型とライダー型は、苦痛の持つ純粋で自明な悪性という同じ種から芽生えるものではあるものの、実は全く違う方向に茎を伸ばしています。
穂積型では、個々の意識から見た他者と外界の実在の不可知性と、個々の意識の存在開始という出来事の途方もない重大さに重点が置かれます。
そして、不運なことに意識が作られてしまった場合の次善策としてのみ、ライダー型と同じ苦痛の「取引」の方法を提案します。
一方でライダー型では、原則1「道徳は他者の扱いの善悪にのみかかわるものである」での「他者」の存在は倫理そのものの前提のように扱われており、行為者が他者の存在を開始することの倫理的な正当性は疑われていません。
もちろん、倫理的配慮に値する者の存在開始は倫理が扱うものの範囲外だ、などという戯言をライダー型苦痛主義者の支持者の大半が言うとは思いませんが、ライダー型苦痛主義がこれを積極的に否定していないのは確かです。
穂積型苦痛主義者は、日常的にはライダー型苦痛主義者のように振る舞いながら、後述するように苦感能力を持つ意識の存在開始を正当化してしまうことができなくはないライダー型苦痛主義を不完全なものと見なさねばなりません。

穂積型とライダー型の間にある重要な違いと、原則Xに優越権を与えることの正当性をよりよく理解するには、原則Xをライダー型苦痛主義の原則リストに加えながらもそれに優越権を与えない場合に何が起こってしまうか考える思考実験が役立ちます。
そのような出来損ないの穂積型苦痛主義モドキを仮に「ミズホ型苦痛主義」と呼んで、それを少々特殊な事例に適用する実験をしてみましょう。

思考実験:生殖が最大苦感者の苦痛軽減に寄与する(ように思われる)状況に「ミズホ型苦痛主義者」はどう対処するか

ある者が苦感能力を持つ意識を宿す有感生物を作ることで最大苦感者の多大な(※3)苦痛が軽減されることが見込まれるような(恐らく非常に珍しい、またはあり得ない)状況では、ライダー型苦痛主義の原則13、14、15は生殖を正当化するのに使うことができてしまいそうです。
そのため、原則リスト内に原則Xを持つミズホ型苦痛主義は、少なくとも一見しただけでは、自己矛盾する立場であるように思われます。

※3:この「多大な」がない場合の生殖は必ず原則14に抵触します。

これを指摘されたミズホ型苦痛主義者はどう反論するでしょうか。
思いつく反論を挙げて、1つずつ検討してみましょう。

1. 原則Xは原則13-15に優先する(道徳ゲームに新規プレイヤーを追加するなというメタ原則)

そもそも道徳がなぜあるのかといえば、それは苦感能力を持つ意識が複数実在することが合理的に推定できるからです。

苦感能力を持つ意識が1つしか実在しない場合――この意識を仮にAと名付けましょう――、その意識Aは自身の苦痛最小化と快楽最大化を求めて、したいことを何でもすることができます。
困ることのできる者がA以外に誰もいないのですから、Aが何をしても倫理的な問題は発生しません。
しかし、A以外にBという意識が実在するらしいと合理的に推定できる場合には、倫理はもはやAの暇潰しの空想ではなく、現実問題になります。
AもBも、何らかの行為をする前に、その行為が他方に苦痛をもたらす可能性を考慮しなければなりません。
道徳は拘束力を持ち、Aが自身の苦痛を軽減(または快楽を増大)するためにしたい行為がBに苦痛を経験させると推定できる状況では、Aにその行為を思いとどまらせ、その結果Aに苦痛をもたらします。
Cをこのような世界に放り込んでよいのでしょうか。
Cは誰にも頼んでいないのに苦感能力を持たされ、苦痛を経験します。
そのうえ、AやBに苦感能力があることを合理的に推定できてしまうため、AやBに配慮して自身の苦痛最小化を諦めて、余計に多大な苦痛を経験しなければなりません。
しかもCから見れば、C自身だけが確実に存在し苦感能力を持つ意識です。
Cは外界で直接生きてはいません。
Cが直接生きているCの知覚内容という世界では、Cだけが実在する意識であり、したがって常にその世界に唯一存在する苦感者です。
AとBが実在するかどうかも、実在したとして実際に苦感能力を持つかどうか(=倫理的配慮に値するかどうか)も、Cには絶対に分かりません。
Cは、いないかも知れないAとBのために自身の苦痛最小化を諦めなければならないのです。

ミズホ型苦痛主義者はこの反論を使うと、原則Xに特権的な地位を与える穂積型苦痛主義者に変わることになります。
ライダー型苦痛主義者が相手である場合は特に、原則Xの特別扱いを正当化するために、このミズホ型苦痛主義者はこの反論リストの5を次に使うことになるでしょう。
その反論5が、私が穂積型苦痛主義と無生殖主義の正当性を説明するためには最も強力だと考える議論です。

2. 苦感能力を持つものを1体作ることは、その子孫の存在が開始されてその中に新たな最大苦感者が出現する可能性を開く(そしてその可能性は高い)

有感生物を作ることは、同時にその後何世代もの子孫たちを作ることでもあります。
振るサイコロの数が多くなれば、少なくとも1つのサイコロが6の目を出す確率は高くなります――これと同様に、有感生物を1体新しく作ることでその子孫の存在開始への扉を開いてしまうことは、何世代にもわたる苦感能力を持つ多数の意識の存在を開始することになり、結果としてそのうちの1つ以上の意識が、現存する最大苦感者を凌ぐさらに多大な苦痛を経験する可能性を作ることになります。
現存する意識たちの間だけで最大苦感者を探そうとせず、我々の現在の選択が作り出す未来の意識たちも含めた全意識の中から本当の最大苦感者を探そう、という新たな視点を持てば、ライダー型苦痛主義者は自らの立場を根本的に変えることなく、意識の生成を悪いものと見るようになるでしょう。

ただし、これが通用するのは生殖奨励主義が台頭し苦感能力を持つ意識の数が多い(と合理的に推定できる)間だけだ、と考えることはできます。
この宇宙で意識が起こっているもの(生命体)が存在する場所が地球だけであり、そこでの意識の総数が例えば2だった場合、そこで新たな苦感能力を持つ意識を作ることによって既存の最大苦感者――または最大苦感者になってしまうと見込まれる既存の意識――を苦痛から救うことが「何世代にもわたる苦感能力を持つ多数の意識の存在を開始することになり、結果としてそのうちの1つ以上の意識が現存する最大苦感者を凌ぐさらに多大な苦痛を経験する可能性を作ることに」なるとは考えにくいかも知れません。

3. 生殖は必ず原則18「Bの苦痛を減少するためにAに苦痛をもたらし得る行為を試すならば、その行為でBの苦痛を軽減することのできる可能性は、Aに苦痛をもたらす可能性と少なくとも同程度でなければならない」に違反する

これは簡単に言ってしまえば「生殖しても生殖者の苦痛が軽減される可能性は高くないが、生殖で作られる子孫が苦痛を経験する可能性は高い」というものです。
一般的にはそうだろうな、と思いますが、そうではないことが前提条件なのだと言われてしまえばそれでおしまいです。

4. この生殖が作り出す何個かも分からない苦感能力を持つ意識たちのうちの最大苦感者が経験する苦痛は、この生殖によって最大苦感者になることを免れると見込まれる既存の意識が生殖によって回避できる苦痛を下回る、と考える理由がない

生殖によって作られる者たちが微弱な苦痛しか経験せず、したがって生殖によって最大苦感者(または、その生殖がなされないことによって最大苦感者になることが見込まれる者)の苦痛を減少することは苦痛主義的に正当化される、と主張するには情報が少なすぎる、という反論です。
しかしながら、上の反論3と同様に、そうではないことが前提条件なのだと言われてしまえばそれまでです。

5. 一つの意識の存在開始は一つの世界の存在開始であり、その世界ではその意識が最大苦感者である

これは原則Xを単品で主張する無生殖主義を擁護する議論として機能しますし、原則Xにとりわけ強い拘束力を与える反論1のサポーターとして使えば、もう穂積型苦痛主義を完成させるのには充分でしょう。

意識(=私)は自身が起きている身体を通して知覚内容という形でのみ外界と出会うことができ、知覚が示唆するような形で外界が実在しているのかどうかを決して知ることができません。
私にとっては、私の知覚内容だけが、間違いなく実在すると分かる唯一の世界です。
そしてその世界では、私だけが確実に苦感能力を持つ意識であり、そのような意識たちの中の最大苦感者でもあることになります。
そこでは、私の経験する苦痛がいくら軽減されても、私は最大苦感者であり続けます。
意識が複数いる世界で、そこでの最大苦感者に倫理的配慮が正しく向けられ(、その配慮が奏功す)るのならば、2番目に多大な苦痛を経験している意識がある時点で最大苦感者に変わることになります(※5)。
しかし、私の知覚内容という世界では私だけが苦感者なので、私はこの確実に存在する世界で倫理的に最も緊急性の高い「最優先課題」であることをやめられないのです。

実在するかも分からない私以外の意識との苦痛の「取引」は(文字通り!)痛みが伴うものです。
そんな不平等条約を結ばなければならない立場に他者を放り込むことが倫理的に許されるはずがありません。
とりわけその他者は、我々が作り出さない限り存在せず、したがって選好も欲求も持たず、存在を開始してもらう必要が全くないのですから。

※5:最大苦感者のための苦痛軽減策が全く効果を生まない時には、優先的な倫理的配慮を第2苦感者に移すことは理に適っています。その場合には当然、最大苦感者は最大苦感者のまま残ることになります。(Ryder, 2001, p. 29)

6. ライダー型苦痛主義は苦感能力を持つ生物種の個体数を減少しなければならないという結論を導出し、生殖はそれに違反する行為である

これは2と3を言い換えただけのようにも聞こえますが、これを書いた時に私が思い描いていたのは有性生殖です。
有性生殖をする生物種の個体数が増えるためには、

  1. 性別の異なる2体がいること

  2. その2体が互いを番(つがい)に選ぶこと

が必要です。
個体数を減らさないことは、生殖が可能な2体の組み合わせができやすい状態を作ることです。
したがって、苦痛主義において苦感者の数は物事の倫理的価値を直接決める要素ではないものの、ライダー型苦痛主義は単体でも個体数減少を志向すると言えます。

しかしこれもまた、2と同じ問題を持っています。
やはり1と5には勝てません(し、勝つ必要もないでしょう、1とだけ5で充分なのですから)。


上記の反論のうち1と5は、それを使うミズホ型苦痛主義者を穂積型に転向させるきっかけになるでしょう。
それ以外のものを使うミズホ型苦痛主義者は、代替案として1や5を思いつかない限り、自らの無生殖主義と苦痛主義の板挟みになって苦労し続けることになります。

穂積型苦痛主義の要点

ライダー型苦痛主義は、日常生活の多くの場面で正しい結論を出して我々の意思決定を助けてくれるものの、苦感能力を持つ意識の存在開始という最も恐れられるべき惨事を特定の条件下では許容してしまうという弱点を持っています――その意識が生殖によって何世代も殖え続けることのできる生命体に起きていればなおさらです。
無生殖主義者でありながら厳密なライダー型苦痛主義者であることはできません。
それが、私がどうしても穂積型苦痛主義を確立しなければならなかった理由です。

穂積型苦痛主義の要点を簡単にまとめると、以下のようになります。

  1. 苦痛を「純粋で自明な悪性を持つ主観的経験の質」と定義する。

  2. 苦痛と快楽はあらゆる種類の価値の源である。

  3. 苦感能力を持つ意識が直接生きることのできる世界は、自身の知覚内容(すなわち自分)という世界だけである。他の意識の実在は知覚に示唆されるものでしかなく、決して確かめることができない。知覚内容(=自分)という世界では、自分が唯一の苦感者であり、したがって必ず最大苦感者である。

  4. したがって、意識を宿すと合理的に推定できるもの(ヒトやその他の動物、主観的経験の有無について確信を持てないAIなど)を作ることは、世界を新たに1つ作ることであり、世界に唯一実在する苦感者(つまり常に最大苦感者である者)を作ることである。そのような行為は倫理的に許容されない(原則X)。

  5. それでも不運なことに作られてしまった意識たちは、他の意識たちの存在を合理的に推定できる限り、ライダー型苦痛主義と同じ方法で苦痛の取引をしなければならない。

私の立場が他者や外界の実在を前提としていないことには注意していただきたいと思います。
穂積型苦痛主義(に限らず多くの立場がそうだと思いますが)は知覚の示唆に基づく推定に動機付けられた、いわば見通しの悪い交差点での徐行です。
誰も渡って来ない可能性がどれほど高く(感じられ)ても、誰かが渡って来た場合に轢いてしまってはいけないので、我々は徐行しなければなりません。

一言余話

高校の新聞部を引退して以来初めての「一言余話」です。

「穂積型苦痛主義」ではなく「独我論型苦痛主義」「独在論型苦痛主義」などと呼ぶべきだろうか、と考えた瞬間はあります。
ただ、独我論とか独在論とかいう言葉を充分な自信を持って使えるほどよく理解していないので、傲慢に見えてしまうリスクを承知しつつ、当面は「穂積型」と呼ぶことにしています。

この1万字の裏にある sentiment は、このように説明できます:
私は存在し、苦感能力を持ちます。
私は、私以外の意識が実在するのか、そして外界が私の知覚が示唆するような形で実在するのか、見当もつきません。
もし外界が実在しないのであれば、または私の知覚の示唆するものとは全く違う形でしか実在しないのならば、苦感能力を持つ意識としての私の存在の開始という倫理的な過ちを犯したものとして私が見ることができるのは、第一原因(『なぜ無ではなく何かが存在するのか』という問いへの答え)だけです。
しかし、外界が私の知覚が示唆するような仕方で実在しており、私以外の意識も実在しているのならば、苦感能力を持つ意識としての私の存在の開始という倫理的な過ちを犯したのは第一原因だけではありません。
私が起きているこのヒトの身体の先祖に起きている(または起きていた)意識たち、とりわけこの身体の生物学的な親に起きていた意識たちが下した決断が、私の存在開始という危険なギャンブルが為されたことの要因のうちのかなり大きな部分を占めています。
轢かれた者として、私は見通しの悪い交差点での徐行の大切さに気付きやすい立場に置かれ、実際に気付いたので、徐行の仕方をこの度ブログポストの形にして発信しています。


参考文献
Ryder, R. D. (2001). Painism: A Modern Morality. Centaur Press.


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