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生きている過去

「過去は死なない。過ぎ去りさえしない」
ウィリアム・フォークナー

疲れていた。いや、疲れきっていた。

3冊目の本を出版したあと、脳の奥で、赤い信号がうっすら灯るのを感じた。そもそも人間は書くように作られていないのだ。休息が必要だった。

海の底の泥のように眠ったし、キーボードの前に立とうとする己を制したし、あえて動かない時間を作った。

面白いもので、休息さえ取れば、人は、机の上の片づけをはじめるし、部屋の隅に積んだ本のページをめくりはじめるし、お気に入りのカップに紅茶を淹れて、部屋のインテリアのことを考えはじめるらしい。

私たちには、もともと健全に生きようとする欲求があり、そう生きられないときは疲れているときなのだと知った。単純な話だ。

ソファの上で、インターネットを検索していると、あるアンティークショップで目に止まるものがあった。半世紀以上前のキッチンカートだった。その真鍮の色とフォルムは美しかった。

お店に出向いて、サイズや、質感を確かめるのが順当だった。しかし遠い場所にあるので、たずねるまで時間がかかりそうだった。誰かの手にわたるのが惜しくて、すぐさま購入した。

物欲はないが、一年にひとつほど欲しくなるものがあり──死ぬまで側に置きたいものがあり──それをコレクションするのを人生の密かな楽しみにしているから。その楽しみに比べると値段は気にならなかった。

数日後、気のよさそうな店員が運んできた。

ソファの前に置くと全身が震えた。この真鍮製の台車を生涯大切にするだろうなと確信した。役に立つかどうか(我が家をおとずれた友人は「何に使うんだ?」と言った)なんて関係ない。美しいかどうかだから。

いまだに置き場所は定まらない。けれどビデオ通話をするときにパソコンを置いたり、本を読みながらティーカップを置いたりした。

ときおり本のページから顔をあげては、にぶく輝く黄金色の脚や車輪やガラスに触れて「ねえ、君は半世紀以上前に、どんな場所で、どんな人たちに囲まれて、なにを運んでいたんだい?」と空想にふけった。

すると疲れた脳裏に、ロウソクの炎のように、過去の幻影が浮かんでみえる気がした。その全ては、いまはもうない、けれど確かにあったもの──過去の、喜劇も、悲劇も、いまは、この遠い国からやってきた真鍮の台車だけが知っているのみである、と。

さて、趣味に走った文章のあとで。本題はここからはじまる。

半月後、近所で、あるカフェをおとずれた。例のアンティークショップの系列店だった。扉をあけると、飴色に光ったレトロな木製家具や、アール・デコ風のガラスの照明、猫の形の銀の置物などがならんでいた。

店内は清潔で、気持ちのいい空気がながれていた。奥のカウンターに、店員の男性がひとりいた。私は品物をながめたあとに頭を下げた。「このあいだ系列店から、真鍮の台車を購入したんですよ」

すると店員はおどろいた顔をした。なんと台車は遠い店舗ではなく──ネットの情報とちがって──このカフェ兼ショップに置かれていたらしい。

「こんな商売をしていると、売りたくないものも出てきましてね。あのキッチンカートは、非売品として、こちらのカフェで使うことにしていたのですよ」と、店の隅を指さした。「ただ問合せがあったので、それまでに値段をつけて掲載していたこともあり──泣く泣く手放したところでした」

「それを買った極悪人が僕というわけですね」

いまは別のアンティーク棚が置かれたスペースをみつめて、その事実に縁のようなものを感じた。すごく大切にしている人の──この場合は真鍮製の台車のことだが──故郷をたずねた気分に近いかもしれない。

「あれは美しいですからね」

「そう」店員はうなずいた。「本当に美しかったと思います」

「本当に大切にしようと思ってます」私は横取りした罪悪感から、いかに大切にしようとしているかを伝えるのが義務のように感じた。

「ひとつだけお願いがあるんです」店員はいった。「あのカートは十分に動かせますけど、たぶん脚やタイヤが弱ってる。だから日常使いで、あちこち転がすのはやめてあげてほしいんです。こう、棚や台として──」

「もちろんです」私は、彼のアンティークに対する愛や、ゆったりした気配から、あることに気づいた。「もしかしてオーナーさんですか?」

彼は恥ずかしそうに答えた。店員ではなく、すべての系列店のオーナーらしかった。カフェを開いたものの人手が足りず──趣味もあるのかもしれない──いまは店頭に立っているらしい。

私は店の奥のカフェスペースに目をやった。このまま予定どおりに店を去ることもできた。しかし、そうしなかった。「せっかくだし、オーナーさんと話してみたいから珈琲を一杯もらおうかな」

珈琲を淹れてもらいながら、アンティークショップの経営や、100年前の家具についてや、私の職業などについて話した。店内は静かで、過去の品々が息を吹き返したように並んでいた。

「ほら」私はいった。「古いものって、新しく作れないじゃないですか。だからアンティークの方が好きなんですよ」

「そう」オーナーはうなずいた。「本当にそうだと思います。背景にストーリーがあるというか──それは新しいものにはないですからね」

私は、そのオーナーに同じ匂いを感じた。その正体について、話をしながら考えていたけれど、お互いに守りたい世界観があって、そのためには損をすることも受け入れている、という生き方をしている点だと思った。

珈琲の黒い水面をみつめて、私は、このカフェにまた足を運ぶだろうなと思った。とにかく現実は居心地の悪いものだから、そういう場所をみつけたら大切にした方がいい。そんなことを考えた。

「ああ」私はカップを置いた。気づけば一時間半ほど経過していた。「最後にひとつだけいいですか?」

「なんでしょうか」

「僕の好きな小説に、ある年老いた音楽家の話がありまして」人生は短いというのに、いつも話を遠まわりさせるのが私の欠点だった。「彼は若い音楽家にこんなアドバイスをするんです。観客の前に立つときは、観客のことを何でもいいからひとつだけ知っておくことだ、と。例えば、この土地は豚の養殖が盛んだから観客は毎日美味しい豚肉を食べているだろう──なんてことでもいい。すると観客に対して、良い音楽を演奏できるようになる」

「はあ」と、オーナーはいった。

「だからね、あのキッチンカートの話を何か教えてほしいんです。海外で買いつけをしたときに感じたことや、どんなふうに入手したか。するともっと大切にできるだろうなって感じたんです。もっと言えば、あのカートは、これから何十年か、僕の手元に残ります。そのあとは誰かの手元にわたるでしょう。この時間すら過去になってしまうように。そのときに語ってあげられるストーリーがほしいんですよ。じゃないと身元不明の家具になってしまうから」

オーナーは時間をかけてうなずいた。私の突拍子もない依頼を飲みこんでいるようだった。「うんうん、なるほど。わかりましたよ」

しかし、その口は、二十秒ほど開かなかった。壁を背に、そうだなあ、と記憶をたぐりよせるのに苦労しているようだった。

「あれは、どこで買いつけたんですか?」

「ああ、あれはニューヨークですね。そう、ニューヨークでした」オーナーはいった。「ああ、思いだしました。本当にささいなことなんですけども」

「教えてください」

「買いつけのときに、ちょっとガラの悪いエリアに足を踏み入れてしまったんですね。ビクビクしながら動いていました。なのに夜になって、予約していたホテルがキャンセルされたことに気づいて──すごく怖くなったのを覚えています。とにかく身の危険を感じて。ほら、海外の危険な場所で一夜を明かすって、大変なことなんですよ」

「ふむ、それで?」

「ああ、それで慌ててタクシーを探して、なんとか安全なホテルに案内してもらったっていう話なんですけど──」と、そこでオーナーは申し訳なさそうな顔をした。「こんなので大丈夫でしょうかね?」

「なるほど」と、私はいった。もう少し気の利いたエピソードを思い出してもらうまでには、たぶん、あと何杯か、このカフェで珈琲を飲むことになりそうだなと思った。

それも悪くなかった。人生は短い。けれど珈琲を飲む時間くらいは、たっぷりあるだろうから。


【良い空間だったので紹介しておきます】
TRENT<アンティークカフェ&ショップ>

大阪市 阿倍野区 天王寺町北 2-5-17
Googleマップ https://goo.gl/maps/X2VsdyRy4Nm7FTom6
Instagram https://instagram.com/trent_coffee.antique_?igshid=YmMyMTA2M2Y=


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浅田さん
ありがとうございます。あなたの「スキやサポート」をインクにとかして続きを書きます。約束します。

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