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地味に、素敵な揉み手になるっ


努力、勤勉が推奨されますが、がんばったのはかなり無駄だったような気もする。

意図してばかりでは、きっと人はしあわせには成れない。

でも、意図を落とすって難しいです。

「何もしない」でいることができない。

けど、「何もしない」「何もしない」と念ずることなら出来る。

地味で内向的な話ですほろほろ。



1.素敵な揉み手になる時


お嫁さんをもらってびっくりした。まったく別な生き物だった。

頭が痛い、胃が痛い、肩が凝る、腰が痛いのと、かのじょが言う。

ピクピクとくたばってる。まったく動けない、なんてことが頻発したのです。

相棒が辛がれば何とかしてあげたい、とさすがに思った。

27歳のわたしは、いくつか指圧の本を買ってきて見様見真似でかのじょを押してみた。

そこから、うん十年揉んでいます。

あれって思うことがあるのです。


10回に1回ほど、うまく揉める時がある。かのじょは楽になる。

いつもなら(10回に9回は)、揉んでやるという意図を消せなくてグイグイ押している。

楽にしてあげたいという意図を持ってしまうので、”処置”してしまう。

ああ、、でも、そうやって押す時、かのじょは楽にはなりません。

10回に1回ほど、いったいわたしは何をしている?


わたしはほとんど「押さない」のです。

押さないようにするという意思はなくて、なぜか押さない。

1か所に親指を置いてすこしすこしと圧をかけてみる。

意図は落ち、探ることだけの意識になってる。

そうすると、そこをさらに深く押すのか、周辺のどこに指が移動していったらいいのかが、”分かる”。

わたしは、ただ指先と一体化して行く。

静かで集中した指先が、かのじょの中の”流れ”を探って行くと言った方がリアルに近い。


そういう押し方に成るのは、かのじょがひどく辛がっているときだと思う。

ほんとに可哀そうなぐらいに、横になってピクピクしている。

わたしは、恐る恐る触る。

で、この「押さない」が起こる。

指圧中、わたしは簡単な返事もします。でも、指先はひたすら探して行く。

かのじょのからだとじぶんの指先との一体感は途切れません。

いくらこれが効果的だと分かっていても、「押さないで押す」ということは意図できない。



2.non-doingするって素敵だ


瞑想は、「何もしない」ということを下腹にどんどん落とすことだと書きました。

年齢が進むとたいがいのことは経験済みで新鮮味が無いんだけど、

「何もしない」ということは今までほとんどしていない。なので、地味に面白いです。


じぶんに「何もしないこと」を強いてみると、普段、無意識に他者をsearchしていることがよく分かる。

エレベータの中、大浴場、廊下、街、バスや電車の中。

嫌なやつ、変なヤツがいないか、危険は無いかをじぶんが警戒している。

一日中、自意識が分析と推測に大量のエネルギーを使ってます。りっぱな神経症です。


そうじゃない、何もしないんだ!といちいちじぶんに言ってみる。

警戒するという無意識な意図を強制的に落とすのです。

実際は意志では落とせないから、何もしない、何もしないと心で唱えてる。

「何もしない」ということを下腹にどんどん落とす。と、わたしは楽になる。安心してしまう。

瞑想は、瞑想のためにするのではなく、適正な意識の立ち位置を学ぶのでしょう。

木は、近すぎると見えない。遠すぎると細部が分からない。

意識を観る立ち位置が、ちょうど良い地点ってある。

神経症側に寄らず、かといって、無関心に寄るのでもない、という中間点がある。

精神が研ぎ澄まされているという地点があるのです。

そもそも、水泳でも英語でも恋愛でも何でも練習って必要だったんだもの。

なぜ、意識の立ち位置は訓練しなくても良いんだろうか。。


何もしないことをする。

ごちゃごちゃしてた部屋が整理整頓されるんでしょうか。こころすっきりします。

危惧するようなことが万一起こったら、起こった時に反応させればいいのです。

きっと、体はうまくやってくれるでしょう。

それは、何かに自分を委ねるという練習でもある。

自意識を落とした分だけ「今」に入ります。瞑想って、素敵だ。



3.素敵な揉み手になるには


うまい指圧に没入できるのは稀なことでした。

かのじょが辛がっていれば、なんとかしてあげたいという意図が出てきてしまうのです。

どれどれ、揉んでやろうか、というわけです。

たいがい、揉んでいても、「今日はうまく揉めないなぁ」とか「効いているんだろうか」とかいう声が脳内でしています。

わたしが主体として揉んでしまうと、かのじょの回復はあまり望めません。

かのじょの体の中の気の流れは分からず、わたしの勝手な思い込みで押してるだけなのです。

うん十年間、うまく揉める時っていったい何なんだと思ってきた。


瞑想は、「何もしない」ということを下腹にどんどん落とすこと。

そうかっ、指圧も「何もしない」をすればいいのだと気が付いたのです。

下腹という絶対安堵の時空に降りて行くのは、なにも瞑想ごっこをしてる時だけではないはずです。

生活すべてがそうだっていいわけです。

で、さいきん、特に指圧をする際はもう意図的に瞑想に入る。

「何もしない」「何もしない」とじぶんの下腹に向かって言っている。

(手は探っているので純粋に何もしてないわけではないですが)

結果、ほとんど意図を持たず、静かに集中した状態で指圧している。かのじょのウケはとても良い。


一番驚くのは、指圧状態でじぶんが話をしているということです。

瞑想というと、静かに黙想しているというイメージがある。

いえ、歩いていたっていいし、返事ぐらいできる(意識を集中し続けられるのなら)。

集中し、かつ、対象に溶け入る。どんどん、深く落ちて行く。。

ああ、、瞑想って話していて良いんだと気が付いた。



4.してはいけないこと


小学5年生にもなると、脳の統合化が完成し自我意識が組み上がります。

と、男子は反抗期に入る。

わたしは、それまで是としていた母に猛烈に反発し始めました。

母がわたしに関心持つと怒り、関心持たないと怒った。


反抗期の少年も、祖父のような立ち位置の人の話は比較的受け入れられました。

”おじいちゃん”や”おばあちゃん”というのは、その子の育成に直接の責任を持っていません。

利害が関わらないので、決め付けが無く、離れてその子を見る。

つまり、年寄りは、小さな子に対して「何もしない」でいることが出来る。

子の方も、年寄りに期待が無いので反発もない。「何もしない」でいる。

最初から、双方の関係は、静かです。


上司や同僚、妻や子と揉めるのは、何かをしようと意図してしまうからでしょう。

相手を変えよう、操作しようとする。期待もある。

こちらの理想から外れていれば怒りや不安を持ってしまう。意図を持つ分、相手を見ていない。

自分自身に対しても、同じことが起こってるといえます。

こんなんじゃダメだとか、失敗し迷惑をかけてしまうとかある。

負けると悔しいとか、モテたいとかいう意図も持ってしまう。

操作感、制御感があると、大事なことに接近できなくなる。


寝る時、急にその日起こった嫌なことを思い出すということがあります。

人が嫌なことを言ったと思い出し、猛烈に腹が立ってくる。

そんな時、一番しちゃいけないことってある。

その続きを考えることを許すと、脳の妄想に巻き込まれてしまうのです。

だから、わたしは「何もしないこと」をじぶんにする。下腹に「何もしない」をどんどん落として行く。


何もしないでいることは、とても難しいです。

ふつうの人にはちょっと無理でしょう。

分析も批判も期待も、気づかないうちにしていますから。

けれど、「何もしない」、「何もしない」と言い聞かせながら、non-doingをすることなら出来る。

嫌なことを思い出しても、涌いた想念に続きが無いのです。で、すっと寝てしまう。

あるいは、理由は分からないけど何だか寝付けないという時もあるかと思います。

イライラしてきます。そんな時も、これをすると、すっと寝てしまう。


自分が自意識に寄り過ぎているということを認識するには、離れて見る位置が要るでしょう。

寄る、離れるを繰り返し、中間点を学ぶ必要がある。と思う。

型を学んだら、もう意識してラケットは振らなくて済みます。

そこまでは、瞑想を練習するつもり。



P.S.


「何かしてあげれることは無いかな」という問いの話を先日書きました。

「何もしない」ということと矛盾します。

いいえ、「何かしてあげれることは無いかな」というのは問いであり、これをしようという意図ではありません。

仕事や作業に慣れて来たら、2つの試みが要るでしょう。

1つは、「何かしてあげれることは無いかな」という問い。

もう1つは、「何もしない」という構えの習得。

過剰な自意識からどうやって離れているかということです。

「してやる」とか「しないといけない」という意図を落とすと、相手が見えて来る。

ご参考になれば幸いです。

なお、少なくとも、素敵な指圧はできるようになります。たぶん。



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