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むかしばなし

高山流水な存在を捜して不器用で日々空白恐怖症になる私がいた。

でもそんな忙しい日々がわたしの自己肯定感を高めてくれたし、寂しさを埋めてくれた。こんなことがこの先10年、20年続いて毎日朝はおはようで始まって夜はおやすみで終わる日々が続いて私は大人になると思ってた。周りの大人は皆口を揃え、

『今のうちだよ』

『10代は青春だよ。もっと遊びなよ』

こんなセリフを他人事のように吐き捨てる。

私には毎日朝から学校に行き、学校のあと、毎日違う予定をこなすという、変化のない日常その物が青春なのだと思い込んでいた。何不自由無かったし、やりたいことは全て不自由なくやらせてもらえて出来ていたからこそ、こんな私の毎日に自惚れていた。忙しい日々が好きだからこそ、1分1秒でも早く大人になりたかった。毎日仕事をして、帰って次の日も仕事。毎日動き回っていたかったし、休暇をとる事が不要だとすら回想した。

塾に画塾、スイミングスクール、新体操、そろばん、エレクトーン、テニス、いくつ習い事をしていたのかも分からない。でも当時の私にはこれがしんどくもきつくも無かった。暇なんて1ミリもないこの時間こそが私を充実感と達成感で満たしてくれた。隙間がないスケジュール帳を眺めている時間が私にとっての快楽。趣味は予定を埋める事。それくらい言える程だった。周りの大人たちからは

『よく頑張ってるね』

『そんなに小さいうちからすごいね』

そんな言葉をかけられる。それが私の自己肯定感を上げ満足感で満たしてくれた。自分の能力を上げる為ではなく,その言葉をかけられる為にやっていたのではないか。母には

『あなたには1週間は7日で1日は24時間しかないの。自分の容量を考えなさい』

そう言われたことがあった。その時は何を言っているのか分からなかったし、私の幸せを取り上げないで欲しかった。私に忙しくないなんてことが全く体験したことの無い分かり得ない世界であったし、忙しさこそ幸福。多忙な日々は時間の経過を忘れさせてくれたし、自分の努力の成果が見えた時、周りから肯定された時、やり甲斐を感じれた。
今考えると確かに母の言った通りだ。
しかし、休暇をとる恐ろしさ。こんなもの1回休みを取れば怠けてしまうものだと、もう動けなくなると思考が間違った方向に進んでしまっていた。休暇を取れば自分の良さが消え去り、自分が自分でなくなってしまいそうな。無意識にそんな気がしていたのだろう。

どうしてこの時に自分の身体も精神も削られているのか気付いてあげられなかったのか。この先自分の首を絞めていくことすら分かり得ていなかった。

人は誰しもそんなに強くない生き物だからこんな多忙な日々を送り続けて行くといつか精神的にも身体的にも状態が悪化していく。私だって1人の人なのだからそうなると。今振り返ればこんな生活ほぼ病気だと思うし、背伸びなんてしないで年相応の日常を過ごすべきだったのだと予測できる。毎日学校が終わったら近くの公園で友達と遊んだり、家でゆっくり宿題をしたり、街でショッピングをしたりなど。私にはそんな思い出が少なくてふと思い出すと時に虚しくなることがある。

私は勉強が好きだった。小学校3年生から中学受験を目指し週4日塾に通っていた。塾の日は夜ご飯のお弁当を持ち、授業が終われば自習をしていた。その他の日は他の習い事で埋め尽くした。毎回の授業でいろんなことが頭に入ること、ノートが新しく学んだ言葉でいっぱいに埋まることが好きだった。自己満足だったし、やった過程を振り返って頑張ったと思えたことが私の幸福感に繋がった。難しい字で埋まるノート、重要単語に蛍光マーカーで文字が塗られている教科書。私の時間をかけて作ったそんな物が大好きだ。

小学三年生から塾に通っていたため、そのまま自動的に中学受験をする流れになってしまった。私の通っていた小学校は人数も少なく小さな小学校で駅から近いため、中学受験をする子が多かった。負けず嫌いで1度言ったらやり切りたい!という気持ちが強く受験を辞めるという選択が取れなかった。格好が付かないと思い、周りに流されてしまった。

しかし夏休み明けの単語100問テストで、1単語につき100回書いていたのに、48点。あんなに必死に勉強していた期末試験が全ての教科60点以下。模試の偏差値が45より上がらない。漢字ノートを年に何冊使い切っていたか分からないくらい書いたのに69点。みんな私がしっかりやっている事を知っていた。だからこそ、

『どうして試験になると出来ないのだろうか』

『なんで点数が取れないのか』

と周りから思われ、言われ続けることが私を苦しめた。私だって聞きたかった。なぜ出来ないのか、なぜこんなにも努力が報われないのか。なぜ、私より勉強していない子の方が点数がいいのか。嫉妬、羨望などの気持ちが高まり続ける。世の中の不公平さに悲しみを覚える。本当は勉強なんか私には向いていないんじゃないか。でも学歴社会で勉強以外で物事に挑むこと以外、私にはまだそんな知識はなかった。そんなことが重なり私は周りとは少し違うのかなと怪訝に思うことや気掛かりに感じることが増えていった。

結局なぜ出来ないのかも分からないまま受けた中学受験は思うように結果が出せず苦しみそのまま公立の地元の中学校に進んだ。今思えば、この時すごい勢いで勉強をしていたから今の自分があるような気もするが、辛い思いをしてまで受ける必要はなかったのかもしれない。過去に戻ったら中学受験を諦めるだろう。

中学にあがり、なぜ勉強がこんなにやった分だけ結果が出ないのかが気にかかり通院したことがあった。
後に病院で学習障害だと診断され、今までの時間と労力が全て無駄だったかのように無双状態に陥ってしまう。勉強量、勉強方法何が間違っていたのか。私にとっては勉強より遥かに難易度の高い問題だ。私自身にしか分からないし、誰にもわかって貰えない有痛感。

『また出来ない。まだ足りない。』

そんなセリフを物理的にできないくせに吐き続けた。この想いを誰にも理解して貰えないからこそ自分の力で治そうと、諦められなかった。

当時の私は完璧こそが幸せだと思い込んでいた。中学校で学級委員長をこなし、友達も多く、私が見本にならなければと何処か完璧主義者のようになってしまった。完璧に出来ないと周りから評価して貰えない、生きている意味が無くなる。そこまで思っていた。完璧主義者で承認欲求が高い。出来たという達成感を味わってみたかったし、何か結果を形に残したかった。私自身に自信をつけてあげたかった。だから色んな勉強法、緊張をほぐす方法、いつく試したか分からないくらいだ。声に出して単語、熟語を読んでみる。塾から帰りもう一度習ったことを復習する。テスト前日には早く寝て早く起きて気持ちを落ち着かせる。どれもいまいち自分に合っていると思えない。学習支援センターに通ったり、検査だってたくさん受けて何が自分に合っているのかを探していた。検査結果はワーキングメモリが低い。人より脳内の机が小さく、情報処理に時間がかかってしまう。
『こんなにやったのにまだ足りなかったのか』
試験を受けるのが段々と恐怖に変わり、テスト前日に全く寝れない日が続く、覚えたはずのものが試験になると全く書けなくなる。そんなことが重なった。授業は誰よりも真面目に受けたし、先生の話はよく聞いていたつもりだ。

結局何が自分に合っているのか、何をしたら正しいのかが分からなくて、人の言う事に従う事に決めた。自分の意思を消し去った方が楽だったから。人が“やれ”と言ったからやった。だから点数が結果が出なくても私は悪くない。そう言えるそう思える。そんな気がしていたから。しかしその時に必要だったのは、こんな惨めな私から一緒に大丈夫だよと逃げ出してくれる存在に巡り会うことだったのではないだろうか。

『まあいいか』

そう思える諦めの気持ち。傷心、哀傷、そんな醜いものに負けてしまいそうな時は一緒に助け合えるような。そんな形じゃ表せないような存在との出会いを求め藻掻き続ける。それが人でなくても猫でも犬でもなんでもよかった。ずっとずっと、教師でも親でも親戚でもない1番近くで私を支えてくれ、理解してくれる存在を探していた。そんな過酷な日々日常を送る事がどこか心苦しく、精神的に追い込まれてしまうそんな予感がしていた。しかしそれに気付かず、そして無意識に誰かに気付いて欲しいという思いを持ちながらその育成ゲームのような生活を続ける毎日。まだその状況に気づけない未熟さ。

『生き甲斐、心の拠り所とはなんだろう。』

『皆こんなに辛い想いをしているのだろうか。』

『他の人はこんなに苦労して生きているのだろうか。』

誰かと比べてしまう性格から、私がこんなことで悩んでいることが辛かった。でも、学級委員を務めていた私は皆のお手本でいなくてはいけないと感じることから弱音なんて愚痴なんて口から1つも零してはいけない。しかし次第に勉強ができないことがバレていき、
『なんで勉強できないくせにお前が学級委員なの?』
そう言われることもあった。
そんなふうに思っていた私は私より先に誰かに気付いて欲しかったし、それを教えて欲しかった。肯定して欲しかった。誰かに守ってもらいたかった。私が居ても許してもらえるような。そんな事を心に持ちながら気付いたら時間が経っていた。



『私死のうと思う』



こんなに重たい言葉を冗談だと思うのか。私は普段こんなこと冗談でも言わなかったし、友達なら止めるのが正しい判断なのではないのか。もしや友達だと思っていたのは私だけだったのか。私の考え方が違うのか。中学生でこの言葉を重く捉えられないのは仕方ないことなのかもしれない。周りの人は止めてくれなかったし、信じて貰えなかった。そんな言葉を言って逃げ出せるはずもなかったし、止めて貰えなかったことが憂いなかった。何も上手くいかないことが耐えられない。自分が生きている理由すらも分からないし、誰かに頼ってみたら失敗する。もう私は限界を通り越していた。

『私、みんなのこと本当の友達だと思ってたよ。』

どうして止めてくれなかったのだろうか。
どうして助けてくれなかったのだろうか。
私が思った事を上手く伝えられない性格だったからだろうか。弱音なんて吐いたこと無かったからだろうか。どうして周りはこんなに難易度の高い問題と戦っていたことに気づいてくれなかったのか。自分が気付けなかったことが悪いのだろうか。他人を責めず自分を責めるべきなのか。もっと強欲にもっとわがままに生きていたら変わっていただろうか。未だにあの時どうしていたら、どの選択肢が最善の結果を導いてくれたのかと考え込んでしまうことがある。

5月17日
マンションの8階から飛び降りた。自殺未遂だ。その時の記憶は全くないし、思い出せるとしても思い出したいとも思わない。飛び降りた時にすごく大きな衝撃音がして、マンションの管理人が救急車を呼んでくれたらしい。1日半の手術が終わり命を取り留めたが、私は自分の命を投げ出したのだから代償はかなりの大きいものだ。
3週間ほど意識不明で、生死をさ迷っていたらしい。だが目覚めた時には誕生日も体育祭も終わっていたみたいだ。当時の3ヶ月前からの記憶がすっぽり抜けていて、起きた時には体には数えられないほどの点滴が刺さっている。何があったのかさっぱり分からなかったし受け入れきれていない自分がいた。トイレに行きたくなり看護師に止められ、ここがどこかも自分が何をしたのかも分からなかった。

『事故に合ったんだよ。』

そう告げられた時は心底不運な女だと思うだけで何から考えて整理すれば正解なのか分からない。きっと曲がり角でトラックにでも衝突したと思っていた。
毎日何10人の違う医者と看護師と顔を合わせ、気軽に話す人もおらず、全く動けなかったため寝れない。朝は眠れたか眠れていないか分からないまま始まり、主治医たちがカウンセリングに来たり、傷の具合を見に来る。窓がないため今日の天気も分からない。
手はミトンで縛られ、足はベットに固定され、腹部と胸部コルセットが二重に重なる。薬も漢方、精神安定剤、を含め1日に30以上の薬を飲んだ。混乱状態になって、日々酷い悪態を付いたり、点滴を無理やり抜いたこともあった。母が面会に来るのは16時頃。母がせっかく面会に来ても、自分では頑張って笑おうとしても悪態をついてしまう。母の誕生日もろくにお祝い出来なかった。携帯も見たらきっと状態が悪くなるとずっと触らせてもらえなかった。自殺未遂をして飛び降り自殺をしようとしたと聞かされた時、私は何も驚かなかった。自分ならそうしかねないとなんとなく気付いていたから。

ICU症候群

ICU症候群とは手術のあとに精神的に不安定になることである。心因性により起こる症状で自分がそうなっていることにも気付けなかった。1人の時に笑顔の練習をした事もあったが笑えた記憶なんて全くない。
トイレにも行けないからオムツ生活。お風呂も何ヶ月入らなかったのだろうか。寝返りも何ヶ月打たなかっただろうか。しっかり座って食事をなぜ取れないのだろうか。好きな時にどうして好きなものを食べれないのか。どうして好きな音楽を聞く時間が無いのか。あんなに嫌だった持久走も今もしできたなら全力で走りたいくらい自分の足で立ちたかったし走りたかった。勉強だって習い事だってみんなと一緒にしたい。膨大なストレスで髪が抜けて円形脱毛症に初めてなったり、生理が全く来なくなったりした。スマホは壊れていると言われ、同じ天井を毎日何時間眺めていたのだろう。
1分1秒が遅く長く感じたし、この時間は学校の時間だ、習い事に行く時間だ、などしか考えることが出来ない。やるせない気持ちだったし、辛い以上の言葉があるのならそう表現したいくらいだ。死ぬ恐さ、辛さの何倍の地獄を痛感していてどうして生き残ったのか分からない。
後頭部を強く打撃し嗅覚を失い、骨を数えないくらい折り、歩行が出来ず車椅子生活、首も固定されていて視野が狭い、傷が開いて手術を再度繰り返す。両足大腿骨の部分に入っているボルトが骨と当たる不思議な感覚。毎日全身のレントゲンを撮り,採血をする。体重も14歳でこの時測ったら38kgしか無かった。ICU病棟、一般病棟、小児病棟、リハビリ病院、何回の移動を繰り返しただろうか。
こんな事普通に生きていて14歳が体験するだろうか。
転院、リハビリ、手術、治療、こんな事を毎日続けていて、学校に戻れるのか。習い事に通えるのか。来年は受験もあるのに、友達はなんて言うだろう。不安で頭の中が埋め尽くされたし、なにより自由を奪われてしまった。これは私に自分自身を見直す時間を誰かが与えてくれたのだろうかそう思うこともあった。
初めのICU治療だった時から精神科の先生、カウンセラーにお世話になった。入院前から元々ADHDであると診断されたりしていた事もありカウンセリングには慣れていた。カウンセラーと話していても他人行儀な自分が出てしまい話すと疲れる。
担当のカウンセラーと担当の看護師がついた。
ほぼ毎日カウンセラーと話しをして、担当の看護師が勤務の時は話をしに来てくれた。日にちを重ねるにつれて、この人達になら話せるのかもしれない。この人たちに話しても害がない。そう思って話せるようにもなって来れた。そんな人達が心の拠り所だったし、気を許して話せる環境が私の心の傷を癒した。カウンセラーと看護師と3人で話している時は普段普通は聞けない年上の人の意見を聞くとが出来た。他にも救命救急士、整形外科、形成外科、のたくさんの方の話が聞く事が出来た。
普通に生きていたらできない体験を出来た。そんな話を毎日聞いていて、私はこれからどうしていくのが正解か、どうしたら良いのかそんな未来予想を立てながら過ごした。これから先待っている未来が私に興味を持たせてくれた。一日千秋とはこういうことだ。皆、私の話も自分の話のように聞いてくれていた。それが何より嬉しかったし、気持ちを楽にさせてくれる。学校、習い事全てから距離をとっていて自分と向き合いながら過ごす時間は今の私にとって重要な事である。そう感じとれた。自分と向き合い、周りの大人に手伝ってもらいながら私は色んなことを経験し知識として得ることが出来た。自分を客観視して今どういう状態なのか、どうしたらより良く精神を保てるのか。そんなことを考え悩みながら毎日が進んでいく。
初めは個室部屋だったが、状態が良くなってきて4人部屋に移った。4人部屋の病室は人がすぐに入れ替わり、関わった人も多かった。そんな中、精神的にも身体的にも徐々に沢山の時間をかけながら、入院前までとは言わないが回復してきた。
そんな時にリハビリ病院に転院した。転院する時に仲良くしてくれた看護師さん、同じ部屋だった子、先生方と離れるのは少し寂しかったが、普段の生活に戻れるかもしれないという希望が少し見えてきた。リハビリ病院では、毎日体に負荷がないくらいの運動をして、勉強をした。実家から少し遠い病院で母が面会に来てくれるのは週に1度だった。4人部屋に入り、同じ部屋の子達、その親戚たちが仲良くしてくれたので寂しさは少なかった。携帯も持たせて貰えてたため、何かあれば友達や母に連絡できていたし、一人暮らしをしているような感覚だった。決まった時間に起きて、朝食を取り、リハビリ、勉強をした。風呂も洗濯も掃除も自分でこなした。毎日リハビリをして、少しずつだができることが増えた。階段は人より登るのに時間がかかったが、歩行もたどたどしいが出来るようになった。
主治医、看護師、リハビリの先生方、病室が同じだった子。入院中何人の人と関わったか数え切れない人との関わりがあった。そんな毎日違う人と関わったり、自分自身と向き合ったりする日常が私を生まれ変わらせてくれた。

ここが人生の転機だった。

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